聚義録

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初学者向け『水滸伝』関連図書:佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(3)

 前回の続きです。今回も佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(中公新書、1992)の第五章第三節「宋江の綽名、呼保義の意味」(pp.84-86)を読んでいきましょう。

 

 閻婆惜殺しのエピソードに続いて、佐竹氏は宋江の綽名「呼保義」から宋江像の原型を探ります。

 宋江の原像をうかがわせるひとつの手がかりはその綽名である。かれは呼保義(こほうぎ)と及時雨(めぐみのあめ)という二つの綽名をもっているが、前者がほんらいのものである。この呼保義の意味するところについて、宮崎市定氏は宋代の武官の位を示す肩書きとしての保義郎が、のちに金持ちがおおくこの肩書きを金をだして買ったことから、金持ちを意味する呼び掛けの言葉となったとされ、呼保義すなわち保義を呼ぶとは、金持ちの旦那さん、やあい、ということであろうとされる*1。宋元期の保義郎という言葉の一般的な使われ方についての宮崎氏のこの説明はたしかにその通りなのであるが、宋江の綽名もまたそのように考えてよいかいなかはやや疑問である。

 宋江の綽名としての呼保義の初見は、宋末元初の「宋江三十六賛」であり、龔聖与はそこで宋江について「仮に王を称さずして、保義と呼ぶ。豈に狂卓にして専ら諱忌を犯すが若きや」と評している。この評語はなかなか難解であるが、宋江は反乱を起こしはしたが、一般の謀反人のように自ら王と称さず保義と称していたのは身のほどをわきまえているものというべきである、というほどの意味であろう。そうすると王に対していう保義とはやはり武官の肩書きそのものであろう。(pp.84-85)

 このあたりはどうしても推測の域を超えませんが、「保義」が当時ある程度一般的な武官の肩書きであるだろうということが分かります。宋江の物語内での肩書きは鄆城県の押司(上級書記)というものですので、武官の肩書きである「保義」が綽名として付けられるというのは少々違和感があります。これが史実に見える反乱者宋江の名残なのか、それとも当時実際に金持ちの呼称として一般化・定着していたものが宋江にも使われていたのかははっきりしません。

 龔聖与「宋江三十六賛」の宋江評ですが、原文は「不假称王而呼保義。豈若狂卓専犯諱忌」です。この一文の解釈は佐竹氏の言う通り難解です。例えば、荒木達雄氏は「假りて王を称さず保義と呼ぶ。豈に狂卓のごとく専ら諱忌を犯さんや」と読んでいたり*2、その解釈のブレは多少あります。余嘉錫に至っては「語意仍不明(意味はやはりはっきりしない)」と述べています。その上で余氏は「不假称王而呼保義」とは、自らを保義と卑下して称したという意味であるとしています。「豈若狂卓専犯諱忌」中の「卓」とは後漢董卓を指し、これは北宋末の傀儡国家の皇帝である張邦昌と劉豫に擬えていると解釈しており、董卓・張邦昌・劉豫らは狂妄な行いで憎まれたけれども宋江はその類いではないということを意味しているとしています*3。いずれにしても龔聖与の宋江評価はそこまで高くなかったわけです。

 『水滸伝』の登場人物の史実―物語間の考証をした人物としておそらく最も有名なのは余嘉錫でしょう。佐竹氏は余嘉錫の見解を引いて話を進めます。

また、中国の余嘉錫氏はその『宋江三十六人考実』で『宋会要』という宋代の制度史史料集録とでもいうべき書の、「兵」すなわち軍事関係の項目のところに「宣和三年(一一二一)十二月十九日、御筆(みことのり)を奉じたるに、河北の群賊自ら賽保義等と呼び、昨(さき)ごろ大名府界に於いて往来して過(とが)を作(な)せり」と記されていることに注目されている*4。宣和三年の御筆すなわち略式詔勅のなかで、賽保義と自称する河北の盗賊が、北宋の副都のひとつであった北京大名府で悪事をはたらいたというのである。賽保義とは本人から言えば保義以上、他人から見れば保義クラスということであろうから、宣和三年十二月以前に、某保義と称した豪傑がいたことになる。余嘉錫氏はこの某保義が宋江のことではないかと疑っている宋江はこの宣和三年の五月に投降したのであるから、この推測には可能性がある。このほか、本来敵対的であった武人に保義郎の位を与えて手なづけた話としては、南宋の首都杭州の繁栄を描いた『夢粱録』に、宋の初代皇帝太祖趙匡胤がクーデタを起こして後周王朝を乗っ取ったときのエピソードがある。このとき後周王宮の門衛の武士たちは主人に殉じて自殺したが、ただ喬と陸という名前の二人が門を守っていた。趙匡胤はこの二人を許して護衛に加え保義郎の位を与えて皇帝の行列の先駆の役にあてたところ、発奮した二人が命を捧げてこれに報いた。趙匡胤はこれに感じて二人をその職場で神として祭らせたところ、のちに宋朝が金に敗れて南渡したとき、この二人の神が、神威をあらわしたというのである。

 これらのばあいの保義郎とは金持ちという意味ではなく、まさに武官の肩書きとしての保義郎そのものであろう。このような点から見れば、現実の宋江が呼保義と呼ばれていたことは十分にありうると思われる。(pp.85-86)

  佐竹氏の言う通り、余氏の説や『夢粱録』の記載に見える「保義/保義郎」とは、やはり武官の肩書きと理解できます。『宋会要』に見える記述から、当時「○保義」と自称する盗賊がおり、宋江もその類いであろうと余氏は推測しているわけです。

 話は少々ずれますが、「宋江はこの宣和三年の五月に投降した」とあります。宋江の名が出てくる史料はいくつもあり、それらをもとに余氏や宮崎氏、高島俊男氏など、多くの研究者が所謂「宋江の乱」について考証しています。しかし、史料間の記述が錯綜していることから、その考証は非常に複雑なものとなり、宋江という人物が二人存在したという宮崎説など、多くの解釈が提唱されました。ごく最近、井口千雪氏が「宋江之乱考実」という論文を出し、「宋江の乱」についての研究史の整理及び新解釈の提唱がなされました*5。オンライン公開されていますので、興味のある方は是非読んでみてください。このブログでもいつか取り上げるかもしれません。

 

 本節の最後では、宋代芸能の視点から「呼保義」について検証しています。

 しかし、さらにまた問題を戯曲小説の主人公としての宋江から見れば、いまひとつ別の見方もできる。すでに引用した北宋末の首都開封の繁栄を描いた『東京夢華録』には、芸人の芸名として曹保義という名がみえている。これが南宋の首都杭州の繁栄を描いた『武林旧事』になると某保義と名乗る芸人は数えきれないほどでてくるが、なかでも興味を引くのは南宋の宮廷のお抱え芸人のなかに雑劇を演ずる王喜というものがいて、かれが保義郎頭であったと記されていることである。保義郎頭とは保義郎の頭ということであろうから、これによって宮中の芸人には武官の肩書きが与えられていたことが知られる。おそらくは、このように宮中お抱えの芸人たちに与えられる武官の肩書きを真似て、市井の芸人たちもまた保義等の芸名を称するようになったのであろう。水滸伝宋江の綽名としての呼保義は、このような芸能の世界の習慣となんらかの関係があったとは考えられないであろうか。(p.86)

 芸能の側面から言えば、「保義」という武官の肩書きが芸人に付けられる習慣があったようです。佐竹氏はあくまで可能性のひとつとして「なんらかの関係があった」と曖昧な書き方をして詳細な考察を避けていますが、佐竹氏の意味するところはおそらく、「当時の芸人は『保義』という肩書きを持つ場合があり、その芸人が講釈・雑劇で宋江を演じたことによって宋江と『保義』との関連付けに影響を及ぼした」といったところでしょうか。

 

 以上の内容から、宋江が「保義」との関係性についての可能性は以下のようにまとめられます。

  •  宋代では武官の肩書きである「保義」を金で購う人物が多く存在しており、一般的に金持ちに対する呼称として「保義」が定着していた。そのため、役人である宋江に対して「金持ちの旦那さん、やあい」といったことを意味する「呼保義」という綽名が付けられたという可能性。〈宮崎説〉

 

  • 宣和三年に武官の肩書きである「保義」を自称する賊についての記載が見られ、宋江も同様に「保義」を自称していたことに由来するという可能性。〈余嘉錫説〉

 

  • 宋代の芸能の世界では宮中お抱えの芸人に「保義」の肩書きを与える習慣があり、「保義」の肩書きを与えられた芸人が宋江を演じたことで宋江と「保義」との関連付けに影響を及ぼしたという可能性。〈佐竹説〉

 

 本書ではこれ以上の考察はされておりませんが、私自身は余嘉錫説が最も説得力を持つように感じられます。先にも少し示しましたが、余氏は『宋江三十六人考実』(pp.28-29)で史書などに見える「保義」の意味するところを精査し、龔聖与の評語及び宋江と「保義」との関係について考察しています。

 しかし宮崎説・佐竹説の可能性が無いかと言うと、決してそうとも限りません。市井の世界でも「保義」という呼称の使用が一般的に定着していたからこそ、「呼保義」という綽名が受け入れられ、語り継がれたのだと思います。

 

 さて今回はここまで。本章は残り二節です。少々長いシリーズとなっていますが、どうぞお付き合いください。次回は宋江の弟である鉄扇子宋清から、宋江のキャラクターを探っていきます。

 

ぴこ

*1:宮崎市定水滸伝――虚構のなかの史実』、中央公論新社、2017改版p.162参照。

*2:荒木達雄「宋江形象演変考」(『中国 社会と文化』(30)、pp.66-84、2015-7)、p.66参照。

*3:余嘉錫『宋江三十六人考實』、作者出版社、1955、p.28参照。

*4:注3余氏前掲書、p.29参照。

*5:井口千雪「宋江之乱考実」(『文学研究』、pp.39-76、2021-3)参照。