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初学者向け『水滸伝』関連図書:佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(4)

  前回の続きです。今回も佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(中公新書、1992)の第五章第四節「宋江の弟、鉄扇子宋清」(pp.87-91)を読んでいきましょう。

 

 宋江の弟宋清は父の宋太公と共に田舎で農業をして暮らしています。宋清は特に大きな活躍をすることもないあまりぱっとしない人物で、最終的な肩書きも「宴会担当」という地味なものです。 佐竹氏は宋江の弟である宋清の「鉄扇子」という綽名から、宋江の人物像を紐解こうとしています。

 

 まず、宋清の綽名の意味や由来についてはいくつか見解があります。瞥見してみましょう。

 

 清・程穆衡『水滸伝注略』では、「扇子以鉄為之、乃無用之廃物(扇子が鉄で出来ているというのは、つまり役に立たないもののこと)」と解釈しています*1

 しかし曲家源氏は鉄扇子には貶義はないとします。宋代当時、扇子は涼を取るためのものと同時に、のんびり暮らす上流階級の若者が自分の身分を表すものであったと言います。悠々自適に農村で暮らしていた宋清が扇子を身につけていたために、鉄扇子という綽名になったと解釈しています*2

 王利器氏は『三朝北盟会編』巻205「由是守陴弓弩皆不発、王進出入以鉄扇為蔽、呵喝如常、人皆寒心悚惧」に見える鉄扇子が攻撃を防いだという記述を根拠に、宋江が閻婆惜を殺して追われているときに宋清が宋江を家に匿っていることから、宋清が鉄扇子のような役割を果たしたため綽名となったと考察しています*3

 他にも、元代の『銷釈真空宝巻』や『西遊記雑劇』に見える「鉄扇子」という呼称に由来するというような主張もあります*4

 

 前回の「呼保義」でも同様ですが、綽名の由来についての見解は様々で、どれが正しいのかというのは判断しづらいものがあります。

 さて、以上のような見解を頭の片隅に置いて、佐竹氏の見解を見ていきましょう。

 この点で興味を引くのは、宋江の弟宋清が鉄扇子という綽名をもっていることである。宋清自体ははなはだマイナーな人物であるから、その綽名についてもあまり研究はない。中国の王利器氏は、鉄扇子がわが上杉謙信の軍配のように敵の攻撃を禦ぐのに使われた例があることから、宋清が兄宋江の活動にたいする敵の攻撃を禦いだことをいうとする。たしかに鉄扇子が敵の攻撃を禦ぐのに使われた例はあるが、そのような一例でこのような判断を下すことはできない。だいたい水滸伝の兄弟の英雄の綽名はお互いに対応しているのが普通である。とりわけ位が下がる新参もので、したがってまた自分の綽名を、その段階での作者に考えだしてもらった英雄の場合には、この現象がはっきりしている。 地煞星の毛頭星孔明と独火星孔亮や出林龍鄒淵と独角龍鄒潤のような例がそれである。おなじく地煞星の鉄臂膊蔡福と一枝花蔡慶のばあいは、兄弟の処刑人であり、兄の蔡福の鉄の臂膊(うで)というのは首切りの腕前をいい、弟の蔡慶のばあいにはかれがつねに一枝の花を鬢に挿していることをいう。この場合にはふたりの綽名の間には一見なんの関係もないように見えるが、実はたとえば水滸伝の第四十二回で死刑執行の決まった宋江と戴宗の髪に「一朶の紅綾子の紙花」を挿してやってから、「長休飯(わかれのめし)」すなわち最後の食事をさせ、「永別酒(わかれのさけ)」すなわちこの世との別れの酒を飲ませているように、死刑囚はその死刑に際して、手向けに一枝の花を髪に挿してもらうのであって、蔡慶の習慣はここからきている。それは兄貴以上におそろしい綽名なのである。

 こうしてみると、宋江梁山泊の第一人者であり、宋清はなんの活躍もしない地煞星の下っぱであるから、この現象がきわめて明らかに出るはずなのに、王利器氏の説ではそれが説明できない。たとえば、西遊記鉄扇公主のもつ鉄の扇子は、ひとあおぎすれば火焰山の火がきえ、ふたあおぎすれば風がおこり、三べんあおげば雨が降るといわれているので、これを宋江の及時雨に対応すると考えるほうが、まだ可能性があるが、これでは呼保義と対応せず迫力がない。(pp.87-88)

 

 佐竹氏の述べている通り、兄弟間の綽名は対応している場合がほとんどです。上記以外にも没遮攔穆弘・小遮攔穆春、出洞蛟童威・翻江蜃童猛などがいますが、確かに佐竹氏の言う通り、一見して宋江と宋清の綽名が対応しているとは判断しづらいですね。

 

 冒頭でも宋清は「宴会担当」と言いましたが、佐竹氏は次にこの役割から「鉄扇子」の持つ意味と「保義」との関連を考えます。

 鉄扇子宋清の梁山泊の中の位置については、第七十一回の役割分担で「専一に筵宴を排するを掌管す」、すなわち宴会の幹事役にあてられていることが参考になる。これは芸人の芸名としての保義となんらかの関係はないであろうか。

 周知のように、中国の芸能、演劇において扇子の使用は重要な役割を演じている。たとえば京劇では扇子の使い方を扇子功といい、団扇(まるおうぎ)すなわちうちわ型の扇子、褶扇(たたみおうぎ)すなわちわがくに普通の扇子等の扇子の種類によってさまざまな扇子の使い方があり、また講釈師たちもつねに褶扇を用いること、わがくにの落語や講釈と同様である。つぎに第2図として示すのは、清末の四川は成都の茶館で、扇子をもって水滸伝三国志を語る講釈師の姿である。当時、成都のほとんどすべての茶館でこのような風景が見られたという。

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 また、南宋杭州の繁盛を描いた『西湖老人繁勝録』や『武林旧事』には、唱賺すなわち謡い語りの芸人に扇李二郎の芸名をもつものがいるが、これは扇子の使い方が巧みであったことから付けられたものであろう。水滸伝そのものにおいても、武芸百般、芸能百般に通ずるとされるいなせの燕青は「腰間(こし)に斜めに名人の扇を挿し、鬢の畔(はた)に常に四季の花を簪(かんざし)す」とうたわれているように常に扇子を身につけている。

 また、水滸伝の第五十一回「挿翅虎枷もて白秀英を打ち、美髯公誤って小衙内を失う」のところで、都の東京開封府からきた名女優白秀英を、扇子をもった老人が口上をのべて観衆に紹介する場面がある。念のために言えば、鉄扇子の鉄は、すでにみた鉄臂膊蔡福のみならず、鉄笛仙、鉄叫子、鉄面孔目等、とりわけ水滸伝の地煞星にきわめてよく出てくる形容であり、おそらくは明初のいいまわしで気持ちを伴った技能の冴え、あるいは技能を伴った気持ちの冴えをいう言葉であり、鉄で作られていることをいうのではない。

 このような事実から見ると、宋清の綽名鉄扇子とは扇子を使っての人の捌きに冴えを見せる名幹事の意であると考えてよい。呼保義とは「保義郎やあい」という呼び掛けの言葉と解されているが、この鉄扇子と対になる呼保義とはあるいは、これこそ宋江役の決まりという名優あるいは名講釈師某保義にたいする呼び掛けと考えられないであろうか。保義さん宋江の話をやってくれというわけである。水滸伝では宋江ははじめから呼保義であるが、その呼保義宋江が遼国燕青に成功して帰って保義郎を与えられる(引用者注:百回本第90回、百二十回本第110回)のは、奇妙なことである。宮崎氏はこれを賞罰の不公平は宋朝のでたらめなやりかたを皮肉ったのだと言われる*5が、すでに『大宋宣和遺事』にみえる水滸伝の筋書きで、宋江は方臘の反乱を鎮圧した功績によって節度使を与えられることになっているので、そこまでの皮肉はやや不自然であり、これはきわめて単純に、水滸伝の最終的作者は、保義郎も節度使も区別がつかず、そもそも呼保義を演劇史上の宋江についてまわったたんなる綽名として扱ったせいではないだろうかと思われる。そもそも当時の人々は、芸能上の宋江と歴史上の宋江との関連には興味も知識もあまりなかったようなのであるから。

 以上によって、おそらくは明初に、動きのない梁山泊の世界がダイナミックな水滸伝の世界へと動きはじめたとき、その主人公宋江はすでに歴史上の宋江とはほとんど繋がりのない演芸の世界の人物であったことが推測できる。

 たとえば水滸伝の世界における宋江の残忍さや小人物的な律儀さは、おそらく閻婆惜故事に見られる原宋江像に由来するのであろうが、この段階になって宋江はもうすこしひろい人格を身につけはじめる。しかし、このような人格は水滸伝の作者たる下級知識人が、水滸伝の話を楽しむはずの庶民にたいして通俗道徳をいいきかせるような、あるいはわが大江戸の大家が店子に人の道を言いきかせるような趣があり、はなはだ魅力に欠けるうえ、時に豪傑ぶりの大見得を切れば切るほどなかなかに滑稽である。(pp.88-91)

 佐竹氏は、

  ・演劇や講釈といった芸能において扇子が重要な道具であったこと

  ・「鉄」が「技能の冴え」を意味すること

を根拠に、「鉄扇子」とは「扇子を使っての人の捌きに冴えを見せる名幹事の意」であると考察しています。

 

 さて、兄弟の綽名が対になる傾向があるということから考えるに、鉄扇子が芸能に由来する綽名だとするのであれば、宋江の呼保義もやはり芸能と何かしら関連するものであると思われるわけです。

 前回の記事で「呼保義」が宋江を演じる芸人の肩書き「保義」に関連するという佐竹氏の見解を示しました。当初私は佐竹氏の見解の可能性について少々疑問を抱いていましたが、仮に宋清の綽名が芸能に由来するものであるのであれば、「呼保義」が「宋江を演じる芸人に対する呼び掛けに由来する」という佐竹氏の見解も説得力を持ってくるかと思います。この見解の是非はまた別の問題として、さまざまな角度から原宋江像を探ろうとする佐竹氏の姿勢と発想には非常に感銘を受けます。

 呼保義宋江に「保義郎」という肩書きを与えるのは奇妙であるが、これは官職に疎い作者が、芸能由来の綽名「呼保義」と官職「保義郎」とをそれぞれ独立したものとして扱ったために起こった現象であると考えています。このことから当時の宋江が「すでに歴史上の宋江とはほとんど繋がりのない演芸の世界の人物」になっていたのだろうと推測しています。

 

 ちなみに「宮崎氏はこれを賞罰の不公平は宋朝のでたらめなやりかたを皮肉ったのだと言われる」とありますが、宮崎氏が述べているのは呼保義宋江に保義郎という肩書きを与えることの出鱈目さではなく、遼国征伐で大活躍した宋江に官位の低い保義郎という官職を与えたことの出鱈目さであることに注意が必要です(佐竹氏の書き方ですと誤読される可能性もあるかと思いますので念の為…)。

 

 さて今回はここまで。次回は本章最終節を読んでいきます。本書の紹介は次回が最後の予定です。ではまた。

 

ぴこ

 

*1:朱一玄・劉毓忱『水滸伝資料匯編』(百花文芸出版社、1984第2版)収録程穆衡『水滸伝注略』(pp.429-493)、p.449参照。

*2:曲家源『水滸伝新論』、中国和平出版社、1995、p.118参照。

*3:王利器『耐雪堂集』、中国社会科学出版社、1986、p.159参照。

*4:盛巽昌補証『水滸伝補証本(上)』、上海人民出版社、2010、p.191参照。

*5:宮崎市定水滸伝――虚構のなかの史実』、中央公論新社、2017改版、p.61参照。