聚義録

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金聖嘆「読第五才子書法」を読む(4)

 今回も金聖嘆の「読法」の続きを読んでいきましょう。今回は第22〜30段です。今回から内容は大きく変わり、好漢たちへの評価について述べています。金聖嘆は梁山泊の好漢たち(全員ではありませんが)を「上上」・「上中」・「中上」・「中下」・「下下」の5段階で評価しています。皆さんの推しの好漢はどのように評価されているでしょう。

 

【22】

一百八人中、定考武松上上。時遷、宋江是一流人、定考下下。

 

〔訳〕百八人の中では、武松を上上と定める。時遷、宋江は同類の人物で、下下と定める。

 

 金聖嘆は好漢の中では武松を最も評価しています。そして一方で時遷と宋江には最低評価を与えています。 

 

【23】

魯達自然是上上人物、寫得心地厚實、體格闊大。論麤鹵處、他也有些麤鹵。論精細處、他亦甚是精細。然不知何故、看來便有不及武松處。想魯達已是人中絶頂、若武松直是天神、有大段及不得處。

 

 〔訳〕魯達は当然上上の人物であり、心根は誠実で、体格はがっちりしている。粗っぽさについて言えば、粗っぽいところもあるが、注意深さについて言えば、とても注意深いところもある。しかし一体どうしてか、見れば武松には及ばないところがある。思うに魯達は人の中の絶頂であるが、武松はまさに天神であるため、大いに及ばないところがあるのだ。

 

 魯智深に対しても「上上」の評価を与えてはいますが、人が神に勝てないように、「人中絶頂」の魯智深であっても、「天神」の武松には及ばないと言います。 

 

【24】

『水滸傳』只是寫人麤鹵處、便有許多寫法。如魯達麤鹵是性急、史進麤鹵是少年任氣、李逵麤鹵是蠻、武松麤鹵是豪傑不受羈靮、阮小七麤鹵是悲憤無説處、焦挺麤鹵是氣質不好。

 

〔訳〕『水滸伝』には人の粗っぽさを描くことだけでも、多くの描き方がある。例えば、魯達の粗っぽさは性急さであり、史進の粗っぽさは若者の身勝手さであり、李逵の粗っぽさは無法さであり、武松の粗っぽさは豪傑が拘束を受けまいとするものであり、阮小七の粗っぽさは悲憤を訴える相手がいないことによるものであり、焦挺の粗っぽさは気質の悪さである*1

 

 前回の記事で「水滸伝』における性格の描き分けに対する強い意識は、金聖嘆に始まったものではありません。例えば容与堂本(百回本)第三回の李卓吾総評*2には、魯智深李逵、武松などは皆「急」な性格であるけれど、それぞれが違ったように描かれている、といった主旨の記述があり、その意識は金聖嘆に大いに影響を与えました。」と述べましたが、ここがまさにその箇所になります。解釈が難しい部分もありますが、李卓吾が「同而不同處(同じであって同じではないところ)」と言った点を、金聖嘆も強く意識していることが分かります。

 

【25】

李逵是上上人物、寫得眞是一片天眞爛熳到底、看他意思、便是山泊中一百七人、無一箇入得他眼。『孟子』「富貴不能淫、貧賤不能移、威武不能屈」正是他好批語。

 

〔訳〕李逵は上上の人物で、まことにとことん天真爛漫に描かれており、彼の胸中を見れば、梁山泊の(自分以外の)107人は、誰一人として彼の眼中にはいないのである。『孟子』の「富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず(どんなに財産や地位を与えられても心を乱さず、どんなに貧しく賤しい身分に落とされても志を変えず、どんな権力や武力でも言うことを聞かせられない)」とは、まさに彼に相応しい評語である。

 

 李逵に対しても「上上」の評価を与え、天真爛漫だと称賛します。自分の思った道を真っ直ぐに走り続ける彼の性格を、『孟子』滕文公下の一文を引いて表現しています。

 

【26】

看來作文、全要胸中先有緣故、若有緣故時、便隨手所觸、都成妙筆。若無緣故時、直是無動手處、便作得來、也是嚼蠟。

 

 〔訳〕文を作ることについて見れば、胸中にまずはその事柄がなければならず、もし事柄があるときには、手に任せて触れたものを書けばすべて素晴らしいものになる。もし事柄がないときには、まったく手を動かすことはできず、作ったとしても味気のないものになってしまう。

 

 「緣故」を「事柄」と訳しましたが、これは題目やプロットのようなもののことでしょう。物語を書き上げるというのは、作者の頭の中に既に出来ているストーリーをアウトプットすることにほかならず、頭の中で出来ていないものを無理やり絞り出しても、面白みのある作品はできないのだと金聖嘆は主張します。例えば【9】の段で「宋江の登場の場面はというと、第十七回にあり、このことから彼の胸の内では既に百遍ほどは計算をしていたことが分かる」という一文がありましたが、これも既に頭の中で計算し尽くし、構想を練り上げていたからこそ成し得たことなのです。

 

 

【27】

只如寫李逵、豈不段段都是妙絶文字、却不知正爲段段都在宋江事後、故便妙不可言。蓋作者只是痛恨宋江奸詐、故處處緊接出一段李逵樸誠來、做箇形擊。其意思自在顯宋江之惡、却不料反成李逵之妙也。此譬如刺鎗、本要殺人、反使出一身家數。

 

 〔訳〕例えば李逵を描くのに、どの段もすべて素晴らしい文章であるが、どうしてその段はすべて宋江の事柄の後ろに置かれているのだろうか。思うに作者はただひどく宋江の権詐を憎んでいるので、あちこちで素朴で誠実な李逵の話とくっつけて、宋江の権詐を)浮き彫りにする。その意図は思い通りに宋江の悪を明らかにすることにあったが、かえって図らずも李逵の素晴らしさを引き立てるのだ。これは例えば槍を刺すのと同じで、元々は人を殺そうとしているのに、かえってその者の腕前を際立たせるようなものである。

 

  金聖嘆は、李逵宋江とを連続で描き出すことで、両者の性質が際立つように設計されていると主張します。

 例えば金聖嘆本第43回、李逵は母のもとから帰還し、好漢たちに偽李逵(李鬼)と出会ったこと、母を食った虎4頭を殴り殺したことを報告します。好漢たちは偽李逵のくだりで笑い、李逵は母が食い殺されたことを報告し終わると涙を流します。しかし、ただ宋江だけは大笑いして「あんたに虎が4頭殺されて、今日はこの山寨に生きた虎(青眼虎李雲と笑面虎朱富)が2頭増えたという勘定だな。まことにめでたい」と言います。この場面では、母の死を悲しむ李逵と、それを大笑いする宋江とを対照的に描かれているのです。ここに金聖嘆は夾批を附していますが、その内容は宋江を貶すものばかりです。

 

 しかしながら実際、百二十回本のこの場面では、李逵の涙は描かれず、「あんたに〜」のセリフも宋江晁蓋の二人が笑って言っていたことになっています。つまり、【27】については、宋江を攻撃し、李逵を称賛したい金聖嘆自身の強い意識に基づいたものなのです。

 

 

【28】

近世不知何人、不曉此意、却節出李逵事來、另作一冊、題曰『壽張文集』、可謂咬人屎撅、不是好狗。

 

 〔訳〕近頃は誰かは知らないが、この意図を理解せずに、かえって李逵の話だけを抜き出して、別に一冊を作り、『寿張文集』と題しているが、まさに人の糞を食らう碌でもないものである。

 

 『水滸伝』における李逵は物語を攪乱しながら展開させる、まさにトリックスター的存在と言えます*3。物語全体における李逵のその役割を理解していない者が、李逵の一部の話を切り取って本にまとめていることに対して金聖嘆は憤っています。『寿張文集』とは、明らかに李逵が寿張県の知県に扮し、裁判の真似事をした話に基づいています。書名を明示しているにも拘らず、誰がこれを作ったのか明言は避けていますが、ここで金聖嘆が批判しているのは明らかに李卓吾(あるいは李卓吾に偽託した人物)です。というのも、容与堂本の冒頭に置かれている「批評水滸伝述語」という文章に次のような一節があるからです。

和尚讀水滸傳、第一當意黑旋風李逵、謂爲梁山泊第一活佛、特爲手訂壽張縣令黑旋風集。

 

〔訳〕和尚李卓吾は『水滸伝』を読み、黒旋風李逵を最も気に入り、彼を梁山泊第一の生き仏だと考えて、わざわざ手ずから『寿張県令黒旋風集』を校訂した。

 

 以前の記事でも触れたことがありますが、李卓吾は『水滸伝』における「忠義」を高く評価している一方で、金聖嘆は梁山泊の「忠義」を真っ向から否定しています。このように金聖嘆は時折李卓吾を強く意識し、名前は挙げないながらも大いに対抗しています*4

 

 

【29】

李逵色色絶倒、眞是化工肖物之筆、他都不必具論。只如逵還有兄李達、便定然排行第二也、他却偏要一生自叫李大、直等急切中移名換姓時、反稱作李二。謂之乖覺、試想他肚裏、是何等沒分曉。

 

 〔訳〕李逵を描いているものがどれも皆素晴らしいのは、まさに造物主が物を象るような筆使いであり、それらを詳しく論じるには及ばない。例えば李逵にはまだ兄の李達がいて、きっと排行は二番目であろうが、彼はことさら一生自らを「李大」と呼びたがっている。しかし差し迫った状況で姓名を変える際には、かえって「李二」と称している。これは利口だと言えよう。試しに彼の腹中を探ってみても、何もはっきりとしない。

 

  李逵は第38回(金聖嘆本第37回)で登場してから、多くの人物に「李大哥」と呼ばれています(きっとそう呼ばせていたのでしょう)。しかし、第53回(金聖嘆本第52回) で羅真人に懲らしめられ、馬知府から「妖人」との嫌疑をかけられて追い詰められた李逵は、やむなく「妖人李二」と嘘の自白をします。「彼の腹中を探ってみても、何もはっきりとしない」というのは、李逵に何か意図や思惑があったというのではないといった意味でしょうが、そうすると「乖覺(利口だ、賢い)」という語がいまいちしっくりきません。李逵には実際には兄がいるのですから、切羽詰まった状況で思わず素の部分が出てしまい「李二」と言ったというのであれば、一体どのあたりが「乖覺」なのでしょうか。「乖覺」と言うからには、何か機転を利かせて「李二」と言ったということでしょうが、金聖嘆は「何もはっきりとしない」と言っています。この段を正確に理解するにはもう少し考える必要がありそうです。

 

 

【30】

任是眞正大豪傑好男子、也還有時將銀子買得他心肯、獨有李逵、便銀子也買他不得、須要等他自肯、眞又是一樣人。

 

 〔訳〕たとえまことの大豪傑や好漢であっても、時には銀子によって心まで買収されてしまうこともある。ただ李逵だけは、銀子であっても買うことはできず、彼自身が承知するのを待たねばならないというのは、まことに(終始徹底して)同じように描かれた人物である。

 

 この点は、【25】で引かれていた『孟子』の一節からして分かりやすいかと思います。李逵は、それが一般的な行動規範に合うかは別として、基本的に自身の信条に沿うのかどうか、自分が納得できるかどうか、自分がしたいことかどうかを基準として行動しています。天真爛漫と評される李逵は、その点において徹底して一貫した人物なのです。

 

 さて、今回はここまでです。なかなか終わりが見えませんが、頑張って読んでいきましょう。

 

ぴこ 

 

*1:この箇所の解釈については、呉正嵐『金聖嘆評伝』(南京大学出版社、2006、pp.311-314)が詳しいです。

*2:容与堂本第3回総評原文「李和尚曰、描寫魯智深、千古若活、眞是傳神寫照妙手。且水滸傳文字妙絶千古、全在同而不同處有辨。如魯智深李逵、武松、阮小七、石秀、呼延灼、劉唐等、衆人都是急性的。渠形容刻畫來、各有派頭、各有光景、各有家數、各有身分、一毫不差、半些不混、讀去自有分辨、不必見其姓名、一睹事實就知某人某人也。讀者亦以爲然乎。讀者即不以爲然、李卓老自以爲然不易也。」

*3:井波律子『トリックスター群像』(筑摩書房、2007)など参照。

*4:金聖嘆が李卓吾批評を強く意識していた点については、例えば小松謙『「四大奇書」の研究』(汲古書院、2010)「第三部第一章 『水滸傳』成立考――内容面からのアプローチ――」、竹下咲子「金聖歎批評の源流を探る――百二十回本『水滸傳』李卓吾批評を中心に――」(『和漢語文研究』第7号、pp.79-92、2009-11)などで触れられています。