聚義録

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金聖嘆「読第五才子書法」を読む(5)

  前回に引き続き、金聖嘆「読第五才子書法」を読み進めていきます。今回はいつもに比べて少ないですが、第31〜35段を読んでいきたいと思います。

 

【31】

林冲自然是上上人物、寫得只是太狠。看他算得到、熬得住、把得牢、做得徹、都使人怕。這般人在世上、定做得事業來、然琢削元氣也不少。

 

〔訳〕林冲は当然上上の人物であり、残忍すぎる描き方をしている。彼が周到に考え、我慢し、自分自身をしっかり制御し(?)、徹底してやったというのは皆人を恐れさせる。このような人物がこの世にいたのならば、きっと事を成し遂げ、しかし気力が削られるということも少なくないだろう。

 

 林冲に対する金聖嘆の評価の一文です。「算得到、熬得住、把得牢、做得徹」という4句がそれぞれ何を指しているのか、金聖嘆は明示しておらず不明瞭です。葛成民「論金聖嘆対林冲形象的改造和評論」(烟台師範学院学報(哲社版)、1998年第3期、pp.40-42)では「算得到」とは妻・張氏と離縁したこと、「熬得住」とは護送されていたときのこと、「把得牢」とは陸虞候を殺すために尖刀を買ったこと、「做得徹」とは陸虞候ら3人と王倫を殺したことと推測しています(p.42)。

 「算得到」の解釈について、おそらくこの4句は時系列に沿って並べられていることからしておそらく囚人として過ごすことになるより前の事項で、しかも高俅らに騙されたことが「算得到」に合わないことから考えると、張氏のことを思い、離縁状を書いた林冲の行動を「算得到」とする葛氏の推測は妥当性を持つと思われます。

 「把得牢」について、「把得牢」の意をそのまま取ると「しっかり握る」となります。そこから考えて「自分自身をしっかり制御する」と解釈したわけですが、葛氏の解釈をヒントにすると、そのまま「尖刀をしっかり握っ(て殺し)た」ことの意だと言える気もします。現時点でこれが一体何を指しているのかはっきりとは分かりません。とりあえずペンディングとしたいと思います。

 

 

【32】

呉用定然是上上人物。他奸猾便與宋江一般、只是比宋江、却心地端正。

 

〔訳〕 呉用は定めて上上の人物である。彼の狡猾さは宋江と同様であるが、ただ宋江と比べて、その心根は正しい。

 

【33】

宋江是純用術數去籠絡人、呉用便明明白白驅策群力、有軍師之體。

 

〔訳〕宋江は専ら権謀術数でもって他人を籠絡するが、呉用は明らかに集団の力を駆使しており、軍師の体がある。

 

【34】

呉用宋江差處、只是呉用却肯明白説自家是智多星、宋江定要説自家志誠質朴。

 

〔訳〕 呉用宋江の違いは、ただ呉用がはっきりと自らを「智多星」と言っているのに対して、宋江は必ず自らを誠実で質朴だと言おうとする点にある。

 

【35】

宋江只道自家籠罩呉用呉用却又實實籠罩宋江。兩箇人、心裏各各自知、外面又各各只做不知、寫得眞是好看煞人。

 

〔訳〕 宋江はただ自分が呉用を制御して動かしていると言うが、呉用がかえって実は宋江を動かしているのだ。二人は、心の内ではそれぞれ分かっていながらも、表面上はそれぞれ知らないふりをしているに過ぎず、その描きぶりはまことに面白い。

 

 【32】から【35】では、宋江呉用を並べ立てて論じています。宋江には「下下」の評価を与えていますが、呉用は「上上」としており、真逆の評価となっています。【32】〜【34】の内容を簡単にまとめると、「呉用宋江は共に狡猾である。自ら『智多星』と称している呉用梁山泊の軍師として策略を巡らせているが、宋江は権謀術数で人を惑わそうとばかりしているにもかかわらず、自らを『誠実だ、素朴だ』と言っている」となります。ここでも金聖嘆は宋江の欺瞞性を批判しています。

 

 【35】については金聖嘆本第35回に次のような描写があります(【】内は夾批)。

下馬敘禮罷、花榮便道、「如何不與兄長開了枷。」宋江道、「賢弟、是甚麼話。此是國家法度、如何敢擅動。」呉學究笑道、「我知兄長的意了。這個容易、只不留兄長在山寨便了。晁頭領多時不曾得與仁兄相會、今次也正要和兄長說幾句心腹的話。略請到山寨少敘片時、便送登程。」【看他便籠罩宋江。】宋江聽了道、「只有先生便知道宋江的意。」【看他也籠罩呉用。○寫兩人互用權術相加、真是出色妙筆。】

 

〔訳(本文佐藤一郎訳、夾批拙訳)〕馬から下りて挨拶をすませると、花栄、「兄貴の枷をはずしてあげたらどうだ」しかし宋江はいった。「なんたることをいうのです。これは国のおきてだ。勝手にはずせるものか」呉学究は笑いながら、「お気持ちはよくわかりました。なんの造作もない。山へひきとめさえしなければいいのでしょう。晁のお頭が久しく兄貴とお会いしていないので、このたびはぜひ兄貴と心おきなく話をしたいとのこと。ちょっと山へおたち寄りくださって、おくつろぎください。すぐにお見送りしますよ」【彼が宋江を操っているのが見て取れる。】それを聞いて宋江も、「やっぱり先生だけあって、よくわたしの気持をお察しくださいました」【彼も呉用を操っているのが見て取れる。○二人が互いに謀略を巡らす書きぶりは、まことに優れており素晴らしい。】

 梁山泊の好漢たちは江州に護送されている宋江を救い出すため、護送役人を殺そうとするがそれでは不忠者・不孝者となってしまうからと宋江はやめさせます。花栄がせめて枷を外させようとしましたが、国の決定に背くことはできないと、宋江はそれもやめさせました。そこで呉用は、言葉巧みに宋江山寨に上らせようとします。呉用の言葉を受け、宋江は山に上ることを決めました。

 金聖嘆はここに「看他便籠罩宋江」・「看他也籠罩呉用」との夾批を加えています。つまり金聖嘆の解釈では、宋江呉用は互いに相手を思い通りに操っていると思っていることになります。呉用の目的は宋江山寨に上らせることです。一方で、宋江は自身が国の決定に背かず、刑期を全うしたいと考えています(金聖嘆から言わせると、これは宋江の本心ではなく、自身を「忠」の者と見せかけるための偽善的行為であるわけですが)。二人は自身の目的を果たすために巧みな言葉を弄しているのであって、互いに相手を自身の思い通りに動かしていると思っているのです。【35】と合わせて考えると、この時、宋江呉用の両者は互いの本心を見透かしていながら気付いていないフリをしていることになります。

 金聖嘆本の面白さは、本文だけでは知り得ない作中人物の心情を(それが作者の意図と合致しているかどうかは別として)金聖嘆が代弁してくれている点にあります。やはり評語も作品の一部なんだと思わせてくれる一例ですね。

 

 余談ですが、近々、小松謙氏の『詳注全訳水滸伝』が出版されると汲古書院から情報が出ましたね。私はこの一文を読んで飛び上がるほど驚きました。

「容與堂本」・「金聖歎本」に附された批評は、中国・日本文学に与えた影響を鑑み全文を翻訳

これは本当にすごいことです。底本は容与堂本(百回本)を使っているということですが、この本が日本の『水滸伝』批評に対する研究に及ぼす影響は大きいことでしょう。楽しみでなりません。第1巻は7月刊行予定ということで、今か今かと首を長くして待っています。(同時に、今までの記事で示した私の解釈が間違っていないかと不安になっています…笑)

 

 さて、最後に脱線してしまいましたが(興奮してしまいすみません)今回はここまでにしましょう。今回のような感じで、これからもゆっくり少しずつ読み進めていきたいと思います。ではまた。

 

ぴこ