聚義録

毎月第1・3水曜日更新

金聖嘆「読第五才子書法」を読む(6)

 突然ですが、私が「読法」の翻訳にチャレンジしてみようと思ったきっかけをお話しします(※以下、自分語りとなります、ご容赦ください)。

 私が本格的に「読法」を読んでいこうと思ったのは、博士課程進学のための院試を直前に控えた2018年の冬に、以前本ブログでも紹介した平岡龍城『標註訓譯水滸傳』に出会い、平岡龍城が『水滸伝』の訓読を試みているのをとても興味深く思ったのがそもそものきっかけです。

 また、今まで触れていませんでしたが(意図的に隠していたわけではありません)、本国には竹田壮一朗「『金聖嘆批評本水滸伝』「読第五才子書法」訳注--『水滸伝』の読み方」(『福岡教育大学国語科研究論集』No.43、pp.50-59、2002年1月)という「読法」の訳注があります。とある方のご厚意により(この場を借りて改めて感謝申し上げます)、当該論文を入手した私は、竹田氏に敬意を感じずにはいられませんでした。しかし同時に、一部「しっくりこない感じ」がありました(大変失礼な物言いをお許しください)。その「しっくりこない感じ」を言語化するために始めたのがこの翻訳なのです。

 訳注末尾に附せられている謝辞によれば、竹田氏も執筆当時は大学院生だったようです。同じく大学院生の私が一人で藻掻きながら作成しているものが本ブログの「読法」翻訳です(竹田氏もおそらく試行錯誤したに違いありません)。本ブログでは、現時点で私の中で一番「しっくりくる」解釈を示しています。それは私の解釈が「正しい」ということを意味するわけではありません(世の中に存在する翻訳全てに言えることだと思いますが)。また、どうしてもうまく解釈できず、仕方なく保留にしている箇所もあります。この点については私の力不足以外の何ものでもございません。しかしながら、翻訳の過程で「どうも分からない」という感覚を得られたこと自体が私にとっては収獲です。

 私の翻訳作業の過程では、当然竹田氏の訳注も参考にさせていただいています。私の翻訳は正式な学術論文などではなく、ブログの記事ということもあり、今まで特に注記してきませんでしたが、未熟ながらも学術界に属する大学院生の一人として、竹田氏の訳注の存在については予めきちんと示しておくべきでした。このことについてこの場を借りてお詫びすると共に、私の「読法」翻訳のきっかけを与えてくださった竹田氏に改めて敬意を表します。

 

 では、今回も「読法」を読み進めてまいりましょう。 今回は第36〜48段、前回に引き続き好漢に対する評価を述べている部分です。

 

【36】

花榮自然是上上人物、寫得恁地文秀。

 

 〔訳〕花栄は当然上上の人物で、このように気品があるように描かれている。

 

 金聖嘆は花栄の気品を高く評価しています。第33回で連発される「花栄文甚」という評語に見える「文」も「文雅だ、教養がある」といった意味でしょう。

 

 

【37】

阮小七是上上人物、寫得另是一樣氣色。一百八人中、眞要算做第一箇快人、心快口快、使人對之、齷齪都銷盡。

 

 〔訳〕阮小七は上上の人物で、他の人物とは違った描かれ方をしている。百八人中で、まことに最もさっぱりとした人物と言え、彼は心も口もさっぱりとしており、もし人が彼と相対したならば、心の卑しさは全て消えてなくなるだろう。

 

 金聖嘆の阮小七に対する評価は「快(さっぱりしている)」の一字に集約されています。第14回、呉用が阮三兄弟を仲間に引き入れようと訪ねる場面では次のような会話があります。

阮小二便道、「先生、休怪我三箇弟兄粗俗、請教授上坐。」呉用道、「却使不得。」阮小七道、「哥哥只顧坐主位。請教授坐客席。我兄弟両箇便先坐了。」呉用道、「七郎只是性快。」

〔訳〕そこで阮小二は言った、「先生、我ら三兄弟はガサツな者ばかりですので、どうか上座にお座りください。」呉用は言った、「それはいけません。」阮小七は言った、「兄貴は主人の席につきなさいな。先生は客人の席についてください。我ら兄弟二人は先に座らせてもらいますよ。」呉用は言った、「七郎はさっぱりした性格をしているな。」

呉用は阮小七の性格を「快」と評しています。また、ここに金聖嘆は「快人快語(さっぱりした者のさっぱりした言葉だ)」、「七郎真是快士(阮小七はまことにさっぱりした男だ)」という夾批を附しています。 誰が上座に座るかなどといったような細かいことにこだわらない爽快さこそが、阮小七の持ち味というわけです。

 

 

【38】

楊志、關勝是上上人物。楊志寫來是舊家子弟、關勝寫來全是雲長變相。

 

 〔訳〕楊志と関勝は上上の人物である。楊志は旧家の子弟のように描かれ、関勝は全くもって関羽の化身のように描かれている。

 

 『水滸伝』の楊志は『楊家将演義』で知られる楊業の末裔とされ、「旧家の子弟」という描かれ方がされるのもそのためです。また、関勝は言わずと知れた関羽の子孫とされ、その容姿や武器(青龍偃月刀)や乗っている馬(赤兎馬)も関羽を意識して描かれています。両者ともに「上上」の最高評価を与えられています。

 

 

【39】

秦明、索超是上中人物。

 

 〔訳〕秦明と索超は上中の人物である。

 

【40】

史進只算上中人物、爲他後半寫得不好。

 

 〔訳〕史進は上中の人物と言えるが、後半ではあまり良く描かれていない。

 

 秦明・索超・史進はともに「上中」の評価です。史進に対する「後半ではあまり良く描かれていない」という評価は一体何を指しているのでしょうか。「寫得不好」と言っているということは、単に登場頻度が減ったということではなさそうです。後半部で史進が大きく描かれる場面と言えば、金聖嘆本第57回末から第58回冒頭にかけて、史進魯智深が立て続けに賀太守の暗殺に失敗して捕らえられる場面(ここは金聖嘆が大きく手を加えています)か、あるいは第68回の、東平府に侵入した史進が馴染みの娼妓に通報され捕らえられる場面くらいでしょうか。そう考えれば、この二つの場面はいずれも史進の失敗を描いていることになります。物語を推し進めるのに必要な展開とは言え、立て続けに描かれる史進の失敗を「寫得不好」と評したという理解が妥当ではないでしょうか。

 

 

【41】

呼延灼却是出力寫得來的、然只是上中人物。

 

 〔訳〕呼延灼は力を込めて描かれているが、上中の人物である。

 

【42】

盧俊義、柴進只是上中人物。盧俊義傳、也算極力將英雄員外寫出來了、然終不免帶些呆氣、譬如畫駱駝、雖是龐然大物、却到底看來、覺道不俊。柴進無他長、只有好客一節。

 

 〔訳〕盧俊義と柴進は上中の人物である。盧俊義の列伝では、力の限り英雄盧俊義を描き出したと言えるが、結局は些かぼんやりしてしまうのは免れない。それはまるで駱駝を描くかのように、見かけは大人物のようであるが、全体をよく見てみれば、人より才智が優れていないように思えるのである。柴進は他に長所は無く、ただ客好きの一節があるに過ぎない。

 

 呼延灼・盧俊義・柴進も「上中」の評価です。「上中」とは言え、盧俊義を駱駝に喩えたり、柴進を「長所が無い」と言ったり、それほど高く評価しているとは言い難いです。盧俊義については、彼の描写が「些かぼんやりしてしま」ったというのが最高評価を得られなかった理由でしょうか。もし、盧俊義の個性を十分に描き出せていたならば、彼が「人より才智が優れていないように思える」ようなことはなかったということです。

 柴進や後述の公孫勝や戴宗について、曲氏は「小説の中で一つの側面が突出し、一種の道具的作用を担っている」とし、このような人物には「中」や「下」の評価が与えられているとしています*1。柴進について言えば、「好客」という側面が作品において重要な役割を担っており、たとえ他に長所がなくとも、そのような側面はそれなりに評価されるわけです。

 

 

【43】

朱仝與雷橫、是朱仝寫得好。然兩人都是上中人物。

 

〔訳〕 朱仝と雷横では、朱仝が良く描かれている。しかし二人とも上中の人物である。

 

【44】

楊雄與石秀、是石秀寫得好。然石秀便是中上人物、楊雄竟是中下人物。

 

〔訳〕楊雄と石秀では、石秀が良く描かれている。しかし石秀は中上の人物で、楊雄は中下の人物である。

 

 朱仝と雷横、楊雄と石秀は二人一組で比較され、それぞれ朱仝・石秀がより良く描かれていると評価されます。この二組は作品中の評語でもよく比較されています。特に石秀と楊雄について言えば、楊雄の性急さが石秀の精細さを際立たせるように対比が意識されており、楊雄が「中下」とあまり評価されていないのはそのためでしょう。

 

 

【45】

公孫勝便是中上人物、備員而已。

 

 〔訳〕公孫勝は中上の人物であり、人数合わせのための者に過ぎない。

 

 公孫勝を「人数合わせ」と断言するのは非常に大胆で辛口な評価ですね。この「人数合わせ」の指すところを考えてみましたが、梁山泊108人の人数合わせ、というよりは智取生辰綱のための人数合わせといった方がまだピンとくる感じがします。この真意については保留としましょう。それにしても法術で大活躍する公孫勝に対して厳しい評価ですね。

 

 

【46】

李應只是中上人物、然也是體面上定得來、寫處全不見得。

 

 〔訳〕李応は中上の人物に過ぎない。しかし彼の(大地主としての)身分はしっかり描かれているが、その描写からは(彼の個性を)全く見て取ることはできない。

 

  【46】の解釈については、曲家源氏の解説が参考になります。

李応形象很模糊、幾乎毫無特色、金聖嘆認為”中上人物”、並且説“李応只是中上人物、然也是体面上定得来、写処全不見得。”所謂“体面”、是指李応是一個大地主、身分“高貴”、然而小説却並未用与他身分相称的筆墨去描写他。*2

 

〔訳〕李応の形象は曖昧で、ほとんど特徴がなく、金聖嘆は「中上人物」と見做し、「李応只是〜(略)」と言った。いわゆる「体面」とは、李応が大地主で、身分が「高貴」であることを指すが、しかし小説では彼の身分に相応しい文章で描写していない。

 

 

【47】

阮小二、阮小五、張橫、張順、都是中上人物、燕青是中上人物、劉唐是中上人物、徐寧、董平是中上人物。

 

 〔訳〕阮小二・阮小五・張横・張順はいずれも中上の人物、燕青は中上の人物、劉唐は中上の人物、徐寧・董平は中上の人物である。

 

 ここに挙げられている人物は全て「中上」の評価を与えられていますが、不思議なのは阮小二・阮小五・張横・張順、燕青、劉唐、徐寧・董平の4グループに分けられて論じられている点です。これが意図的に分けられたものなのか、現時点では断言できません。強いて言えば、阮小二〜張順は全て水軍を担う人物、徐寧と董平はいずれも官軍出身の人物、燕青と劉唐はどちらにも属さない人物ですので、そういう分類を念頭に置いて書かれたものなのかもしれません。いずれにせよ、更なる検証の必要がありそうです。

 

 

【48】

戴宗是中下人物、除却神行、一件不足取。

 

〔訳〕 戴宗は中下の人物であり、神行法を除けば、ひとつとして取るべきものがない。

 

 「中下」と評価されているのは戴宗ただ一人です。「中」等級とは言え、「下下」に次ぐ低評価です。曲氏の見解に基づけば、神行法の「道具的作用」は一定の評価に値するわけですが、彼が「中下」という低評価にとどまったのは「ひとつとして取るべきものがない」からでしょう(柴進の「他に長所が無い」よりも厳しいニュアンスが含まれるか)。かなり辛辣な評価です。

 

 以上のように、金聖嘆の評価の根拠には、未だ不透明な箇所も少なくなく、まだまだ検証の余地がありそうです。金聖嘆による人物評価の段はここまでで、次からはまた新しいセクションに入っていきます。今回はここまでといたしましょう。

 

ぴこ

*1:曲家源『水滸伝新論』(中国和平出版社、1995)、p.442参照。

*2:注1曲氏前掲書、p.442参照。