聚義録

毎月第1・3水曜日更新

『水滸伝』本文校勘の意義:小松謙『水滸傳と金瓶梅の研究』

 小松謙氏は『水滸伝』テキストの校勘の意義について次のように述べます。

 

 『水滸傳』の諸本間に多くの本文異同があることは周知の通りである。いわゆる繁本と簡本が大きく本文を異にすることはいうに及ばないが、繁本・簡本同士の間にあってもかなりの異同が認められる。ただ、その異同のレベルを『三國志演義』と比較すれば、比較にならないほど小さいといってよい。

 

〔…〕

 

 從って、『水滸傳』の本文異同を研究しても、『三國志演義』の場合のようにその成立過程を浮き彫りにすることはできない。しかし、これは『水滸傳』の本文の異同には研究する價値がないことを意味するものではない。『水滸傳』は、「四大奇書」の筆頭として後世に大きな影響を及ぼしたという意味における文學史上に占める地位、「中國語」の原型となった白話文を確立した存在という語學史上に占める地位、そのいずれの面からいっても極めて重要な研究對象である。また、『水滸傳』の本文異同が微細なものであることは、一方では表現や言語が洗練されていく過程を細かく追跡しやすいということを意味する。この點で、本文校勘を通して分析を加える素材としては最適のものといってよい。〔小松謙『水滸傳と金瓶梅の研究』(汲古書院、2020)、pp.19-20〕

 

 そして『水滸伝』の本文異同の詳細な分析により、次の3点の解明が可能であるとします。

 

版本学・出版史的問題・・・版本間の関係を明らかにすることができる

文学的問題・・・本文の成立と変貌の過程(テクストの生成過程)を明らかにすることができる

語学的問題・・・白話文の成立過程を跡づけることができる

 

 本文校勘による研究というと、おそらく①について論じたものが多いと思います。白話小説の研究で言えば、小松氏の他に、例えば氏岡真士氏の一連の『水滸伝』研究*1や中川諭氏の一連の『三国志演義』研究*2なども、専ら①に焦点を当てて各版本の継承関係や発展過程を解明しています。これらの中では①が最初に解決すべき問題であって、②③は①が解明されてはじめて手を付けられるものです。②③もそうですが、例えば金聖嘆本研究や毛宗崗本研究なども、その底本が明らかになっていなければ論じようがありませんし、地道な校勘作業から得られるもの、そしてその成果を踏まえた研究の発展性を考えると、①の問題の重要度の高さが理解できるかと思います。

 

 さて、②③について詳しい説明がなされていますので見てみましょう。

 

②本文の成立と變貌の過程を明らかにすることができる。換言すれば、テクストの生成過程を解明する手段となりうる。(文學的問題)

 

 ①の成果を踏まえた上で、校勘作業により、いわゆる生成論的研究を行うことが可能になる。白話文學作品の多く(特に明代までのもの)は、近代文學のように一人の作家が創作したものではない。從って、たとえばフローベールについて行われているような、作者が殘した草稿による本文改變の過程の追跡による生成論的研究は不可能である。しかし、版本間で改變が繰り返されているということは、その全體像を把握することにより、その作品がどのようにして「生成」したかを解明することができることを意味する。つまり白話文學においては、版本間の異同を把握することにより、その作品がどのように變化していったかをたどることができるのであり、これは近代文學において作家がどのようにして作品を創作していったかを解明することと同様の意味を持つ。違いは、「作家」が複數であることであり、更に、そこには商業・政治等の社會的要因が密接に關わる點にある。そこから逆に、社會と文學の關わりを解明することが可能になる。これを①の成果とあわせて考察することは、大衆による樂しみのための讀書という行爲がいかに成立・發展してきたかについて考える上で重要な意味を持つ。この點については、第三章で更に詳述する。

 


③白話文の成立過程を跡づけることができる。(語學的問題)

 

 諸版本間に見られる異同を、本文の成立時期や刊行主體と結びつけて追っていくことにより、白話文がどのように變化していったかを明らかにすることができる。白話とは、口頭語語彙を使用する書記言語のことである。元來正式な書記言語としての意識を持たずに文字化された以上、當初は口頭言語の寫しとしての性格が強かったはずである。從って、表記も確定せず、文法的にも破格のものを多く含んでいたに違いない。それが次第に洗練され、書記言語として自立するに至る。『水滸傳』において一應の完成を見た白話文が今日の「中國語」の原型となっている點から考えれば、これは「中國語」の成立過程を再現することである。〔同書、pp.21-22〕

 

 『水滸傳と金瓶梅の研究』は第一部第一章「『水滸傳』諸本考」と第二章「『水滸傳』石渠閣補刻本本文の研究」で①の問題を、第三章「『水滸傳』本文の研究――文學的側面について――」で②の問題を、第四章「『水滸傳』本文の研究――「表記」について――」で③の問題を論じており、第五章「金聖歎本『水滸傳』考」では②③を合わせて扱っています。

 

 ②については、講釈などの芸能と密接に関わりを持って発展してきた白話小説が、次第に芸能的要素を排除して「小説」として自立していく過程を追っています。この過程には「語り」の問題が大いに関わっています。この「語り」の問題は近年非常に注目されています。最近のもので言えば、例えば佐髙春音氏が『水滸伝』や『三国志演義』の語りや視点に関する論文*3を発表しています。

 

 ③については、口語由来であるがために不安定だった白話語彙の表記が模索、統一され、自立した書記言語として確立した過程について論じています。表記の問題に関する先行研究は、例えば佐藤晴彦氏の方位詞・語気詞「li」の研究*4があります。他にも「jiao(教、叫)」や「de(的、得)」の問題などがこれに当たります。

 

 私は大学の先生から「真実はディテールに宿る」と教わってきました。本文校勘で得られる情報のひとつひとつは小さなものに過ぎません。しかし、そういった小さな手掛かりが積み重なることで白話小説全体の発展過程が明らかになるというのは、まさにこの言葉を体現しているように思われます。

 

ぴこ

*1:氏岡真士「三十卷本『水滸傳』について」(『日本中国学会報』第63集、pp.95-109、2011-10)、同氏「容与堂本『水滸伝』3種について」(『中国古典小説研究』第19号、pp.1-20、2016-3)など多数。

*2:中川諭『『三國志演義』版本の研究』(汲古書院、1998)など。

*3:佐髙春音「『水滸傳』の語りをめぐる考察 : 人物描寫を中心に」(『東方学』第126輯、pp.71-88、2013-7)、同氏「毛宗崗本『三國志演義』の「視點」をめぐる改變」(『東方学』第136輯、pp.57-71、2018-07)、同氏「金聖歎本『水滸伝』の批評に見える「眼中」について」(『慶應義塾中国文学会報』第4号、pp.40-60、2020-3)

*4:佐藤晴彦「容與堂本『水滸傳』成立の一側面」(『神戸外大論叢』第50巻第5号、pp.1-17、1999-10)