聚義録

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論文紹介2:荒木達雄「『水滸伝』に見える「義」の解釈」(2)

 前回に引き続き、荒木達雄「『水滸伝』に見える「義」の解釈」(『東京大学中国語中国文学研究室紀要』第13号、pp.22-48、2010-11)の内容を紹介していきます。

 

○本論文の目次

1.問題の所在

2.「義」の表れる場面とその解釈

3.朱子学の「義」

4.陽明学の「義」

5.李卓吾の思考法 

6.「義」の使用上の制限 (←今回はここから)

7.明代作品中にみえる「義」

8.使用対象の広がり

9.明代日常規範意識としての「義」

 

●6.「義」の使用上の制限

 儒学と『水滸伝』では「義」に対する基本認識は共通する

  ・「人としてなすべきことはなにかを判断し、それを果たそうとする意志」

  ・なすべきことの放棄や私利私欲への批判

     →動機は共通するが、運用面では差異が生じる

 

朱子学

 官学としての朱子学では、なすべきことは体制を基準に決まり、これに従って判断することが求められる。小規模範囲の秩序維持は、上位範疇、ひいては体制全体の秩序維持に貢献しなければならず、個人の判断がそれに合わない場合は「義」とは呼べない。(p.36)

 

陽明学李卓吾

 陽明学では既存の基準に従うのではない。しかしそれは、すべてが自由であることは意味しない。最大の目的はやはり体制秩序維持であり、「良知」に従う以上は、個人がなすべきことと感じたことが上位秩序を乱すことは想定する必要もなく、したがって推奨もしてはいない。ある種楽観的な考え方である。全体に貢献しない個人の判断は、人欲が天理を妨げているとされ、「義」とは呼ばれない。

 李卓吾陽明学の原則を堅持している。ただし、「良知」さえあれば個人に判断をまかせても理想状態が完成するというわけにはいかないという不安をより強く持っていたと思われる。(pp.36-37)

 

水滸伝

 一方水滸伝』でひとたび秩序を保とうとする範囲が策定されると、その時々の範囲外への「副作用」の如何に関わらず、また体制秩序に貢献するか否かによらず、当事者がその範囲の秩序のためになすべきと感じたことでありさえすれば「義」と称され得る。これは外部や上位範囲の秩序への影響には関心を払わない用法、秩序を守る範囲に固定した優先順位を設けない用法と言える。外部の秩序や体制を乱さないこともあるが、それは結果的にそうであっただけであり、「他の秩序を乱さないのが義である」という確固たる定義があるのではない。この「他への無関心」が朱子学陽明学との違いであるが、それはあくまで運用面での差異にすぎず、儒学の「義」が『水滸伝』の「義」を生み出す危険性は十分にあったのである。(p.37)

 

●7.明代作品中にみえる「義」 

▷『古今小説』巻七「羊角哀捨命全交」

 兄弟の契りを結んだ羊角哀と左伯桃は、仕官を求めに向かう道中で大雪に見舞われる。伯桃は角哀に衣服・食料を譲り、伯桃は凍死した。角哀は官職を得た後、伯桃の霊が荊軻の霊に苦しめられていることを知り、「義に報いる」ために命を絶ち、霊となって荊軻を倒した。

→この「義」は両者の結びつきの強さ、命を賭しても恩に報いようとする強い意志を指す

 

▷『三国志通俗演義』 巻十七「范強張達刺張飛

 関羽が戦死し、劉備は仇討ちのために軍を進めようとするが、秦宓がそれを諫める。

学士の秦宓が進み出て上奏した。「陛下のこの行いはもとより関公の復讐であり、愚考いたしますになすべきではありません。陛下が万乗の御身を顧みられず小義をなそうとなさるこの行為は、古人はとりません。」…先主は怒って言った。「関公と朕とは一心同体なのだ。大義はまだここにある、忘れてよいはずがない。」

その関羽を戦死させた敵を討伐するのはなすべきこと、「義」である。その一方で劉備には蜀漢皇帝という立場がある。この立場でなすべきことは第一に国家秩序の維持である。仇討ちのために無謀な戦いをしかけることは王朝に危険をもたらす。小規模範囲の「義」は上位の秩序に貢献するために存在するという考えでは劉備の思考は「義にもとる」とされてしかるべきである。しかしこの文の執筆者は秦宓に、劉備の「義兄弟としてなさねばならない」という動機を「義」 と認めたうえで、その「義」は国家の臣として受け入れられないという態度をとらせている。それを表したことばが「小義」である。注意すべきは、「義」と称すことはその判断への賛同を示すのではないことである。劉備の考えは国家秩序に貢献しないどころか迷惑ですらある範囲限定的なものであるが、心がけが「義」であることは否定できないというのがこの場面における処理なのである。(pp.39-40)

 このような例に対する朱子学的解釈では、国家の安定のための行為を「大義」と見做し、それを妨げる心がけは「義」と認めずに「私情」「利」と断じる(陳淳『北渓字義』巻下「義利」)

上位の「義」を害するものを「義」と認めるか否かによって、同じ動機に対する評価が正反対になる

 

●8.使用対象の広がり

  「義」は「孝」や「悌」などと違って特定の行動に限定されず、明人は「義」で多くのことを表す傾向を持つ。明代では様々な道徳的行為を「義」と称すようになっていた可能性がある。

(ex.)范式が命を賭して張邵と重陽節に会う約束を守ったことに対して

・『後漢書』『捜神記』→「巨卿信士、必不乖違」

・雑劇「死生交范巨卿鶏黍」→「巨卿千里赴會、真乃信士也」

・『清平山堂話本』「死生交范巨卿鶏黍」→「為信義而死」

・『古今小説』巻十六「范巨卿鶏黍死生交」→「」「」「信義

 

●9.明代日常規範意識としての「義」

 『水滸伝』式の「義」

  =「私利私欲ではなく、人としてなさねばならぬことだ」と本人が感じている行為

 

この「義」は一体どのように位置づけたらよいだろうか。これには前述の李卓吾の評語が参考になる(前回記事参照)。人が最も身近な人間関係を保とうと努力することは自然なことである。その努力が既存の秩序一切を乱さないとは理想にすぎない。現実には最も身近な人間関係を最優先すれば、範囲外への影響を考慮できなくな る可能性も高い。むしろ何があろうと身近な人間関係を守ろうとする意志の強さが評価されることすらある。これでは体制教学の理想とする「義」にはならない。李卓吾はその危険性を感じて評語をつけたのである。
 つまり『水滸伝』式の「義」は、体制全体に適合した教学的・理想的な用法に対し、身近なことを優先して個々の状況に対応する、現実的用法なのである。理想的か現実的かは、当事者のいる場面による。上中層階級の者が科挙に臨む場合、考場では当然朱子学に沿った思考で答案を書く。この時「義」は体制秩序に貢献する、理想的なものである。しかし同一人物がひとたびあらたまった場を離れれば、現実的な「義」に従い、家族や友人との関係を守るためには他に迷惑をかけることも辞さないと考える。当時の知識人は朱子学を理解せざるを得ないが、日常の思考すべてが朱子学に沿っているわけでもない。明代中期には「挙業のための学とほぼ一体化したことにより、朱子学的教養の位置づけは形式主義に堕することを免れなかった。......朱子学的教養の獲得そのものが目的なのではなく......明朝の官僚として政治に参与するための必須条件として、強制的に学ばされるものとなってしまったと言える」状況が見られ、日常の「義」に朱子学的理想とそぐわない部分があろうとも、挙業と日常の現実とは別であると割り切ることができたと思われる。(pp.42-43)

 

 水滸伝』で反体制とされる行為が現れやすいのは、「義」自体がその性質を有するからではなく、朝廷の権力から外れた作中人物の立場によるもの。梁山泊好漢が最優先にした身近な人間関係の秩序を保とうとする道徳実践(=「義」)は、当時の他の作品にも見られる。置かれた立場の違う作者や読者は、その思考法に共感し、実感できたのではないか。

 

 

○結論

(『水滸伝』では)「義」を守る際の障碍は一般社会の比ではない。しかし障碍を強力に排除しようとし、その結果いかなる不利益が生じるかも顧慮しない。現実社会の読者がしたくてもできないことを強力に実現に向けて遂行するのが『水滸伝』の「義」であると言えよう。それは『水滸伝』に限らない。天下の大局よりも生死をともにしてきた義兄弟の仇討ちを優先する劉備や、かつて結んだ個人間の関係をなによりも重んじ、「義絶」 と呼ばれる関羽など、同時代の他作品でもこの種の「義」を体現している人物が人気を博している。こうしてみると、水滸伝』の「義」は孤立した概念ではなく、明代の小説編纂者層・読者層の共有する「義」の感覚をよく反映していると言えよう。現実離れした世界の特殊な道徳を描いているのではなく、作者・読者にもよくわかる身近な道徳を万難を排して実行しようとするさまを描いたのがこれらの英雄像なのであり、そうであればこそ広く支持を受けたのであろう。(p.44)

 

 

 『水滸伝』の「義」の概念について当時の思想的背景から考察したのが荒木氏の本論文であり、その調査は非常に網羅的であると言えます。本論文の内容にご興味を持たれた方は、笠井直美「隠蔽されたもう一つの「忠義」―『水滸傳』の「忠義」をめぐる論議に關する一視點―」(『日本中国学会報』第44集、pp.172-186、1992-10)や仙石知子「毛宗崗本『三國志演義』に描かれた關羽の義」(『東方学』第126号、pp.89-105、2013-7、のち同氏『毛宗崗批評『三國志演義』の研究』(汲古書院、2017)収録)を合わせて読まれることをオススメします。現時点ではいずれもオンライン公開されていないのが残念です。

 

ぴこ

 

論文紹介2:荒木達雄「『水滸伝』に見える「義」の解釈」(1)

 『水滸伝』には様々な版本が存在しています。それらの中には作品タイトルに「忠義」を冠したものがいくつもありますが、『水滸伝』における「忠」や「義」あるいは「忠義」とはそもそもどのようなことを指すのでしょうか。今回は『水滸伝』に見られる「義」に焦点を当てた荒木達雄「『水滸伝』に見える「義」の解釈」(『東京大学中国語中国文学研究室紀要』第13号、pp.22-48、2010-11)の内容をご紹介します。尚、一部原文を省略し、和訳のみ示している箇所がありますが、その具体的な出典や原文は本論文に記載がありますので適宜そちらをご参照ください。

 

○本論文の目次

1.問題の所在

2.「義」の表れる場面とその解釈

3.朱子学の「義」

4.陽明学の「義」

5.李卓吾の思考法 (←今回はここまで)

6.「義」の使用上の制限

7.明代作品中にみえる「義」

8.使用対象の広がり

9.明代日常規範意識としての「義」

 

○本論文の目的

 『水滸伝』において「義」という語が重要な位置を占めていることは周知の事実と言えよう。〔…〕容與堂刻百回本『水滸伝』には、合計四百二十六の「義」の使用例が見られる。数が多いのみならず、様々な状況下で自在に用いられるため、この語を把握することは容易ではなく、従来の研究では多義語であるとしたり、『水滸伝』に特徴的な「江湖の義」があるとして儒家の「義」とは切りはなして分析したりするむきも多かった。本稿は、複雑に捉えられてきた『水滸伝』の「義」をあらためて検討し、その位置づけの再考を試みるものである。〔…〕本稿ではまず『水滸伝』における「義」の統一的イメージを描き出し、同時代の他の文献に見える「義」と対照しつつ、その性質の定義づけを試み、それが特殊とみなされがちな要因にも言及したい。(pp.22-23)

 

○本論

2.「義」の表れる場面とその解釈

 『水滸伝』の「義」に統一的解釈がなされなかった要因

   =「義」に基づく言動のもたらす結果が多種多様で共通性を見出しがたい

〔例1〕都頭既然如此仗義、小人便救醒了(都頭がこれほど義を重んじられるなら、わたくしは二人を目覚めさせましょう:第28回)

 武松は護送される途中、張青から二人の護送役人(張青・孫二娘によって痺れ薬を飲まされた)の殺害を勧められた。しかし、武松は二人はここまできちんと扱ってくれたとしてこれを断った。それに対して張青は〔例1〕のセリフを言った。

   →逃げる機会を失ってまで、役人の命を救い、法に服す

 

〔例2〕那時我與宋江在他庄上相會、多有相擾。今日俺們可以義氣為重、聚集三山人馬、攻打青州(当時おれと宋江は彼らのやしきで出会い、いろいろと面倒をかけた。いまおれたちは義気を重んじ、三山の人馬を集めて青州を攻めるべきだろう:第57回)

 〔例2〕は、武松を屋敷に住まわせてくれた孔明と孔賓が投獄されたことを聞いた武松のセリフ。 

   →官に背き、都市に攻め込む

 (引用者注:例1と例2とでは)確かに結果はよほど異なるが、危機に陥った恩人を助けようという動機は一致していることがわかる。その動機に従うと、前者では「自由をあきらめる」、後者では「官軍と戦う」という試練がたちはだかる。「造反」自体が目的なのではなく、恩人を助ける際の障碍がたまたま権力であったと考え、二つの「義」の関連性を重視する方が、この語の使用実感に近いのではないだろうか。

 「義」はそもそも徳目、つまり人の思考を規定するものである。このことからも、「結果主義」的観点ではなく、〔…〕「動機主義」的解釈が妥当であろう。(p.26)

 

〔例3〕宋江就説「輳隊上梁山泊去投奔晁蓋聚義。」宋江は言った。「軍勢を集めて梁山泊へ上り、晁蓋のもとに見を投じて聚義しよう。」:第35回)

   →仲間になること

 

〔例4〕李逵見他兩個(=欧鵬・陶宗旺)赶來、恐怕爭功壞了義氣、就手把趙能一斧、砍做兩半、連胸膛都砍開了。李逵は彼ら二人が駆け寄ってくるのを見て、功績を争って義を壊すのではと思うや趙能を斧でまっぷたつに、胸まで切りさいた:第42回)

   →仲間割れ

 

〔例5〕「小乙(=燕青)本待去辭宋先鋒、他是箇義重的人、必不肯放。只此辭別主公。」(私は宋先鋒にお別れを申しあげてからと思っていましたが、あのかたは義の重いかた、行かせてはくれますまい。いまご主人にだけお別れを申しあげます:第99回)

   →「仲間であるからには結束を守らなければならない」という考え

 

〔例6〕一失雌雄、死而不配、此為(ひとたびつれあいを失うと、死んでも再び得ようとはしない、これが義である:第90回)

   →「絶対にこの関係を断ってはならない」という意識

 

〔例7〕一丈青(=扈三娘)宋江義氣深重、推却不得〔…〕晁蓋等衆人皆喜、都稱賀宋公明真乃有德有義之士(一丈青は宋江の義気が深いのを見て断りきれず〔…〕晁蓋たちみなはとても喜び、宋公明は本当に徳と義のある人だとたたえた:第51回)

   →「結婚相手を見つけてやる」という王英との約束を守ろうとする宋江の意志の強さ

 

〔例8〕「若是衆位肯姑待李俊、容待收伏方臘之後、李俊引了兩箇兄弟徑來相投、萬望帶挈。是必賢弟們先準備下這條門路。若負今日之言、天實厭之、非為男子也。」那四箇道「我等准備下船隻、專望哥哥到來、切不可負約。」李俊、費保結義飲酒、都約定了、誓不負盟。(「もしおのおのがたがしばしお待ちくださるのであれば、方臘を屈服させたあと、弟二人を連れて身を投じますので、どうかお連れください、賢弟たちは必ずや先にその道の準備をしておいてください。もしこのことばに背けば天も私を見放す。男ではない。」四人は言った。「我らは船を整え、あにきのおいでを待っています、ゆめゆめ約束を違えなさるな。」李俊と費保は義を結んで酒を飲み、誓って盟に背かぬことを約した。:第94回)

   →直前で既に義を結んで仲間になっており、ここでは「約束を守ることを誓う」の意

 

〔例9〕只見階下魯智深、使手帕包着頭、拿着鉄禪杖、徑奔來要打張清。宋江隔住、連聲喝住「怎肯教你下手。」張清見宋江如此義氣、叩頭下拜受降。(ふと見ると階段の下では魯智深が手ぬぐいで頭をくるんで鉄の禅杖を手に、まっすぐに駆け寄って張清に打ちかかろうとしてる。宋江はつづけざまに叱りつけた。「おまえに手ハは出させぬぞ。」張清は宋江のこの義気を見ると、ひれふして宋江を拝し、投降した。:第70回)

   →「不利な立場にあるものを傷つけてはならない」という意思

 

〔例10〕 陳府尹哀憐武松是個有義的烈漢、如常差人看覷他。(陳府尹は武松が義のある豪傑であると同情し、しょっちゅう人をやって様子を見させた。:第27回)

   →「兄の仇を討たねばならない」という道義的理由に基づく殺人

 「義」は身近な人間関係の秩序を維持・調整しようとする心理である。その際の判断基準は「当然このように考えなければならない」という道理であり、それにしたがってその時々の立場に応じてなすべきことを判断し、いかなる障碍があろうともそれを貫こうとする。〔…〕利益や欲望にながされてこの判断に従わなければ「負義」「私」などと非難される。

 特に注目したいのが「身近な人間関係」、「道理」の二点である。

 前者については、秩序を調整しようとする人間関係の範囲は往々にして恣意的に決められ、時と場合によっても異なることがあげられる。このとき目的は範囲内の調整であり、そのために範囲外にどのような影響を与えようともあまり関心は払われない。〔…〕

 後者に関して注目すべきは、「誰が決めた道理か」である。他人が決めた基準や既存の規則ではなく、当事者自身の基準により判断するのである。〔…〕当人が道理にもとづいて人間関係を処理しようとしている、少なくともそのような建前で行動しようとしていると認められれば、結果がどうあれ「義」と称されるのである。(p.29)

 

●3.朱子学の「義」

▷『四書集注』:「宜」に通じ、「人としてなすべきこと/適切な行為/秩序を保つもの」を意味する   (ex.)年長者を敬う、欲望を抑える、利益に流されない

 

▷陳淳『北渓字義』

・「義は、心について言えば、心でよく考え決断することである。宜は決断の後に表れる字である。決断が理にかなっていれば、宜しきを得る。〔…〕たとえばある人が一緒に出かけようと誘いに来たら、出るべきか出ざるべきかを判断しなければならない。」(巻上「仁義禮智心」)

・「義について言えば、あらゆることを考えて決断し、それぞれが宜を得るのもまたすべてこの天理が広がったものである。」(巻上「仁義禮智心」)

 

 総じて、「義」=「世の中の秩序を保つために人がなさねばならぬこと」

 

朱子学は個人の道徳的修養を述べているだけにも見えかねないが、その理念は「道徳イコール政治」であり、自己の道徳修養によって秩序を安寧にする「広義の政治学」なのである。〔…〕秩序を保つべき範囲は第一に国家であり、そのためになすべきことが、現在の人間関係を乱さないことなのである。〔…〕小規模単位の秩序を保つことは上位の秩序を保つために必要なのであり、個人修養の最終目標が平天下である以上、下位の秩序だけが治まっていても意味はないのである。この原則から「義」を見れば、ひとたび結んだ関係は裏切らない、約束は守りぬくなども、それが全体の秩序に貢献するからこそ「なすべき」なのである。個人が道徳的に判断したことでも、より重要な秩序である体制を乱す可能性があれば「義」とされない。この観点では1、2の両例は「義」と「不義」とにわかれる。このように、なすべきことを国家の秩序につながるか否かで判断するという基準はゆるがず個人では左右できない状態が、官学としての朱子学的「義」と言えよう。(p.31)

 

●4.陽明学の「義」

▷『伝習録

・「君子の学は生涯ただ義を集めるの一事のみである。義とは宜である。心が宜を得ることを義という。良知を致すことができるとは、心が宜を得ることである。故に義を集めることもまた良知を致すことにほかならない。君子はあらゆる変化に対応し、なすべきならばなし、止まるべきならば止まり、生くべきならば生き、死すべきならば死す。」(中巻「答歐陽崇一」)

・「義とはすなわち良知が、良知が要点であるとわかると執着がなくなる。たとえば人から贈りものを受けるとき、今日は受けるべきであり、別の日には受けるべきではないということもある。今日は受けるべきでなく、ほかの日に受けるべきだということもある。もし今日受けるべきであったことに執着してすべて受けることにしたり、今日受けるべきでなかったことに執着してすべて受けないことにしたりするのが適や莫であり、良知の本体ではない、義ということができようか」(下巻)

  →「義」の根本は朱子学や『水滸伝』と異なるものではない

  →「義」は「良知」そのもの

「良知は意図や計慮によらず自然にほとばしりでる心の働きを意味する……良知さえ十全であれば、その良知からやむにやまれず発露された行為はすべて妥当となる」のであり、「諸行為の妥当性は結果によって判断されるのではなく動機の次元で判断される」という点で『水滸伝』の「義」と非常に似通っている。しかし陽明学は決して行為の結果はどうであってもかまわないと考えるものではない。〔…〕陽明学はそもそも体制秩序の安定を目標とし、国家の教学になることをも視野に入れたうえで、朱子学の缺陥を改めようとしたものである。そのために経書に埋没するのではなく、人間が本来具有する天理を発揮するほうが為政者の心がけにつながる、と説いているのであり、朱子学と目標を同じくしつつ、そこに至る道すじを異にしているだけなのである。

 水滸伝』で各自が下した道徳判断を「義」と表現する様子は陽明学に通じる。陽明学が通俗小説の発展に影響を与えたこと、通俗小説に陽明学好みの人物が多数見られることなどはこれまでにも指摘がある。『水滸伝』が刊行され、読まれた背景には陽明学の流行という時代の風潮があり、「義」の解釈もその風潮に乗ったものであったとは言えよう。しかし『水滸伝』中の「義」には、本来の陽明学が望まない方向へ「義」を使用し、陽明学の危うさを現出させた面もあったと言えるのではなかろうか。(pp.32-33)

 

●5.李卓吾の思考法

 実際その(=李卓吾の)思想で過激なのは体制教学の形骸化への批判であり、「夫以率性之真、推而擴之、與天下為公、乃謂之道(自然な本性を押し広げていけば天下のための「公」となる、これを「道」と言う)」と言うように、やはり儒学にもとづいた国家の安定を目指しているのである。決して自分勝手な行動を推奨しているのではなく、規則に縛られず各自が本性に従うほうが天下は乱れないという理想を前提とした考え方である。『水滸伝』を肯定したのは、形式にとらわれずに人間の本性を描いているからで、そこにある「義」を全面肯定したわけではない。李卓吾の「義」の考え方は、『續藏書』「孝義名臣」、『初潭集』巻十九「篤義」に見える。〔…〕たとえば、曹操孔融を誅殺した際、日頃親しかった者もみな関わろうとしなくなったが、脂習のみがその死体にすがって哭した、という一条がある。

 しかし他書と比べると、その利用の仕方は少し異なるようである。(p.34)

 

〈他書の類話〉

▷嘉靖本『三国志通俗演義

修曰「汝生逼他命、亡而不哭非義也。畏死忘義、何以立世乎。吾受袁氏厚恩、若得收葬譚屍於殘土、然後全家受戮、瞑目無恨。」操曰「河北義士何如此之多矣。」(王修は言った。「貴様はあのかたを死に追いやった。死して哭さないのは義にもとる。死を恐れて義を忘れては、この世に身をおいていられようか。私は袁氏の大恩を受けているのだから、袁譚の遺骸を葬ることができるならその後一族皆殺しにされようと恨むことはない。」曹操は言った。「河北の義士はこんなにも多いのか。」)

 → 明代の類書『天中記』「義烈」がこの故事を「義士」と題していること、この類話が他にもあることから、当時、権力に逆らってでもかつての主君や、昔からの友人との関係を守り抜こうとする人物の逸話が広く知られ、それを「義」と感じる人が多かったと言える。

 

 ここで注目すべきは、曹操が「義」と感じた、と書かれていることである(原文下線部参照)。王修の思考は、曹操を中心とする権力秩序に反するものであり、その体制秩序には貢献しないものであるにもかかわらず、曹操自身に「義」と称させているのである。

 李卓吾はこの話柄を採用したものの、曹操にその行為を「義」と評価させてはいない。さらに「篤義」末尾に「是故士為知己者死、而況乎以國士遇我也(だから士は己を知る者のために死ぬと言うのだ。ましてや国士として扱われたならば、必ずや国家のために死ぬであろう)」という言葉を含む総評を加えている。この総評で李卓吾は、「義はそもそも心のなかに生じる(義固生于心也)」という陽明学の原則を強調し、「義を好もう」とするのは作為的であるから「義」ではないと述べている。〔…〕三国志通俗演義』や『天中記』と李卓吾では同一類型の利用態度が異なるのである。前二者は、ここに描かれた個別の行為だけで十分「義」であると見なす。李卓吾は心がけをほめている。国家に向ければ立派な「義」になるのに、というような言いようであり、それは同時に陽明学や自身の学説を誤解されないようにという心の表れなのであろう。(pp.35-36)

 

 さて、今回はここまで。本論文は非常に内容が濃密で、今回の記事だけでは全てを解説することができませんでした。次回に続きます。

 

ぴこ

論文紹介1:林雅清「『水滸傳』における「好漢」の概念」

 前回までは初学者も比較的手に取りやすい『水滸伝』の関連図書を扱っていましたが、今回は『水滸伝』関連の論文を取り上げようと思います。

 

 皆さんは『水滸伝』のどんなところに魅力を感じますか。その答えは様々だと思いますが、梁山泊の豪傑たちの豪快で爽快な活躍に面白さを感じたという方はおそらく多くいらっしゃるのではないでしょうか。梁山泊の頭領たちはよく「好漢」と呼ばれますが、今回はそもそも「好漢」とは一体何なのかということについて論じた林雅清「『水滸傳』における「好漢」の概念」(『関西大学中国文学会紀要 北岡正子教授退休記念号』第27号、pp.89-105、2006-3)を紹介しようと思います。私は『水滸伝』の「好漢」をテーマに卒業論文を書いたということもありまして、この論文は私が大学生活で読んだ論文の中でも特に思い出深いもののひとつです。この論文はのちに一部修正が加えられ、林雅清『中國近世通俗文學研究』汲古書院、2011)に収められました。本来、学術的には修正が加えられた最新のものを用いるべきなのですが、結論に直結するような大きな修正は加えられていない点と本ブログをご覧の皆さまの便を考え、今回は基本的にオンライン公開されている旧バージョンに基づくことにします。

 

○本論文の目次

1.はじめに

2.抽象的「好漢」

3.具体的「好漢」

4.おわりに

 

○本論文の目的

〔…〕『水滸傳』は「好漢」という言葉が最も多く用いられている作品である。では、「好漢」とは一体どのような人物を指して言うのであろうか。好漢たるものの行為とは一体どのようなものなのか。〔…〕これらの疑問を、「好漢」という言葉が『水滸傳』の中でどのように使われているかということを探りながら考察し、『水滸傳』における「好漢」という言葉の概念の定義づけを試みたい。 (pp.89-90)

 

○本論

 まず林氏は「好漢」の用例は大きく「抽象的概念を表すもの」と「具体的なある種の人物を指すもの」の2種類に大別できるとした。

 

【A】抽象的「好漢」

①抽象的概念を表す「好漢」

〔例1〕這棒也使得好了。只是有破綻、贏不得眞好漢(その棒さばき、なかなか見事だ。しかし隙がある。それでは真の使い手には勝てぬ)

〔例2〕怕的不筭好漢(恐れるやつはではないぞ)

〔例3〕我須知景陽岡上打虎的武都頭、他是清河縣第一箇好漢(景陽岡で虎をなぐり殺した武都頭と言やあ、清河県きっての豪傑じゃないか)

〔…〕これらの「好漢」は全て、いわゆる「男」をいう意味を表している。「男」とはすなわち、いわゆる「男らしい」男のことである。雄々しさ・豪傑さ・強さ・潔さ・積極性など、一般に男性に備わると考えられる特質を備え持った人物、それが「好漢」なのである。

 しかし、「好漢」は、これら「男らしさ」の特性を全て備えていなければならない、ということではなさそうである。〔…〕以上のことから考えると、単に強いというだけでも「好漢」であり、潔い男・豪快な男・義に厚い男も、それぞれそれだけで「好漢」なのである。つまり、「男らしさ」の特性をどれか一つでも備えておれば、「立派な男」ということになるのである。むろん「男らしい」は褒め言葉であり、ゆえに、この場合の「好漢」は褒め言葉である。(pp.91-92)

 

②呼びかけの「好漢」

 ▷見た目で「男らしい」と判断して「好漢」と呼ぶもの

〔例4〕孟州牢城にて囚人連中が武松に対して「好漢」と何度も呼びかけた

 

▷許してもらおうと思って「好漢」と呼ぶもの

  →この「おだて」の用法は「好漢」に褒め言葉としての性格があるため生じた

〔例5〕武松にねじ伏せられた孫二娘が「好漢饒我(兄さん許してくださいな)」 と許しを請うた

 

③自分のことを表す「好漢」 

〔例6〕小人是個好漢、官司既已吃了、一世也不走(わたしもです。いったん罪に服したからには、逃げも隠れもいたしません) 

〔例7〕兄弟雖是個不才小人、却是頂天立地的好漢、如何肯做這等之事(わたしはつまらん人間ですが、これでも男一匹の好漢のつもりです。そんなばかなことをするはずがありませんよ) 

自分のことを表現する場合に褒め言葉を用いると、態度が尊大になってしまうはずである。しかし、CとHの例文(引用者注:例6・7)では、聞き手は話し手よりも目上、または話してよりも強い立場にあるため、これらの言葉は謙遜の意を含むものでなければならない。先に述べたように「好漢」は褒め言葉であるが、ここでは自分を褒めているとは考えられない。したがって、ここでの「好漢」は、褒め言葉としてのニュアンスは失われ、中立の言葉と化していると考えられる。要するに、騙したり嘘をついたりしないということを「好漢」という言葉で表しているのである。しかしながら、「男らしい」という本来の概念を失っているわけではない。「騙したり嘘をついたりしない」ということは「義を重んじる」ということであり、それはすなわち「男らしさ」の一面でもあるからである。(p.94) 

 

④「好漢」と「英雄」

 林氏は「好漢」は「強さ」の面から「英雄」や「豪傑」などと同一視されるが、これは誤りであるとする。その根拠として、呉用が阮氏三兄弟に晁蓋のことを話す前に言ったセリフ(例8)と、張青が武松に対して言ったセリフ(例9)を例に挙げる。

〔例8〕如今山東、河北多少英雄豪傑的好漢(いま山東や河北のあたりには、英雄豪傑たる好漢がいくらでもいるではないか)

〔例9〕去戲臺上説得我等江湖上好漢不英雄(舞台の上で、世を渡る侠客なんてのは英雄じゃないなどとふれまわるだろう)

(例8の)この「英雄豪傑」は、「好漢」を修飾する言葉であり、名詞が形容詞化したものであると考えられる。「英雄豪傑たる好漢」という言い方ができるとすれば、「英雄豪傑」でない「好漢」も存在するということにもなろう。〔…〕(例9の)この「英雄」も形容詞化されていると考えられ、「好漢」と「英雄」は、その用法と概念が同じではないということが理解できよう。〔…〕同じような概念を表す褒め言葉の場合でもその用法が違うということは、それぞれの言葉の種類自体が異なるということであろう。(pp.95-96)

 つまり「好漢」と「英雄/豪傑」の概念の違いは以下のように纏められる。

  ・「好漢」は「英雄/豪傑」を包括する概念である

  ・「好漢」は中立の概念を表す言葉にもなり得るが、「英雄/豪傑」は完全な褒め言葉で中立の言葉にはなり得ない

  ・ 「好漢」は呼びかけに用いられるが、「英雄/豪傑」は呼びかけとして用いられない

 

【B】具体的「好漢」

 ①具体的人物を示す「好漢」

〔例10〕可憐解珍做了半世好漢、從這百十丈高崕上倒撞下來、死於非命(哀れ半生を好漢として過ごした解珍は、その百丈あまりある高い崖の上からまっ逆さまに落ちて、命を落としてしまった)

〔例11〕可憐解寶爲了一世獵戸、做一塊兒射死在烏龍嶺邊竹藤叢裡(哀れ一世の猟師たりし解宝も、烏竜嶺の一角の竹と藤のしげみの中で、身をまるくして射殺されてしまった)

結論からいうと、具体的「好漢」は褒め言葉ではない。〔…〕なぜなら、具体的「好漢」とは、ある種の身分を表す言葉であるからである。その身分とは何か。それは、盗賊団を束ねる山寨の頭領、特に梁山泊の頭領のことである。〔…〕(例10の)この「好漢」が抽象的「好漢」の概念に当てはまらないということは、そのすぐ後にある解宝の死の描写と比較してみれば、一目瞭然である。〔…〕(例10・11は)表現が対応している。「猟師」は言うまでもなく職業の一種である。そうすると、この「好漢」もそれに近い概念を指すと考えられ、よって梁山泊の頭領のことを指していると考えられるのである。(pp.96-97)

 

梁山泊一〇八人の好漢

 梁山泊の108人は、たとえ宋江呉用など客観的には「男らしい」とは言い難い人物であっても武芸の心得があるとされている場合が少なくなく、武芸に関する表現が全く無いのは戴宗・朱武・安道全・皇甫端・宋清・朱貴・蔡慶・石勇・白勝・郁保四・時遷・段景住の12人である。

 また、下図は林氏が作成した図*1に私が書き入れをしたものである。

《凡例》甲群=包括的表現「梁山泊好漢」以外でも「好漢」と表現されている人物

    乙群=「梁山泊好漢」以外では一度も「好漢」と表記されない人物

    赤囲い=官軍出身の人物

    青囲い=武芸に関する表現が全く無い人物

    緑囲い梁山泊以外の山寨(強盗)出身の人物

 

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 ここから言えることとして以下の3点が挙げられる。

(1)官軍出身の人物の多くが乙群に属する

(2)梁山泊以外の山寨の頭領出身の人物は郁保四以外全て甲群に属する

(3)武芸の心得も無い上に「好漢」と表現されることもない梁山泊の頭領(梁山泊以外の山寨出身の郁保四は除く)は6人である

 

(1)・(2)→ 抽象的「好漢」として「官に楯突く者」という概念があると言える。

 

(3)→ 医者である安道全と皇甫端、盗みが得意な時遷と段景住、「好漢」と称される宋江と蔡福に付随してきただけでこれといった特技の無い宋清と蔡慶は抽象的「好漢」には含まれないが、梁山泊の頭領となったが故に具体的「好漢」(=梁山泊の「好漢」)には含まれる

 

③一〇八人以外の好漢

  108人以外の「好漢」として、まず初代梁山泊首領の王倫と2代目首領の晁蓋が挙げられる。晁蓋は典型的・代表的な抽象的「好漢」であるが、王倫は「他心地窄狹、安不得人(あいつは度量の狭い男で、なかなか人を信用しない)」と言われるように、到底「好漢」とは呼べない人物である。しかし、梁山泊の頭領であるが故に王倫も「好漢」とされる。

 他にも「好漢」と書かれる人物を18人挙げるが、そのほとんどが腕が立つとされる人物であることから、抽象的「好漢」には「武芸に秀でた強い男」という概念があることが認められる。

 

④女頭領と「好漢」

 梁山泊の「好漢」には、扈三娘・顧大嫂・孫二娘という三人の女頭領が含まれるが、本来「漢」という言葉は男性しか指さない。

 ならば、梁山泊の三人の女頭領はなぜ「好漢」と表現されるのか。それは、至って単純明快である。この三人を含めていう「好漢」という言葉は、すべて具体的「好漢」である。〔…〕梁山泊の頭領であれば無条件に「好漢」という肩書きがもらえるのである。したがって、具体的「好漢」には女性も含まれるということになる。ただし、抽象的「好漢」には、つまり「好漢」本来の意味には、女性は含まれないと考えられる。その証拠に、この三人個人を対象に「好漢」という言葉が使われている箇所は、一例もない*2。(pp.102-103)

 

○結論

 「好漢」の概念とは何か。〔…〕「好漢」の概念がはっきりとその二つ (引用者注:抽象的「好漢」と具体的「好漢」)に分類される訳ではないが、ここに、抽象的「好漢」の概念をもとに「好漢」という言葉の概念が次第に集約され、新たに具体的「好漢」の概念が生まれたという仮説を立てたい。ただ、むろん集約される前の抽象的概念も残されており、また、集約とは逆に概念の拡張も起こる。さらに、集約された概念からは新たな概念も生まれる。こうして、「好漢」の概念にいくつもの意味合いが生まれたのであろう。(pp.103-104)

 

 ●「好漢」概念の集約現象

 ・「男らしい男」(もとの概念)

     ↓

 ・「強い/武芸の心得のある男」だけが取り出される

     ↓

 ・「盗賊団の頭領」の概念に集約(梁山泊頭領であれば「好漢」に含まれる)

     ↓

 ・「反体制に属する者」の概念が付加(官軍武将は強くても「好漢」ではない)

 

「好漢」概念の拡張現象

 ・「男らしい男」(もとの概念)

     ↓

 ・単に「男」を意味する言葉として使用(褒め言葉的ニュアンスが希薄化)

  

 以上が本論文の内容です。このように本論文は「好漢」という語の用いられ方を根拠にして「好漢」の概念の定義付けを試み、その概念の範疇を考察しています。梁山泊の頭領たちが「好漢」と呼ばれる理由を知るにはうってつけの論文と言えますね。

 

ぴこ

*1:原論文の図中には誤字があり、のちに著書に収録された際に修正が施されているため、本図は著書から引用したものである(林雅清『中國近世通俗文學研究』(汲古書院、2011)、p.25参照)。

*2:先出の図では、顧大嫂が甲群に分類される点について、林氏は「呉用公孫勝、孫新や顧大嫂など、単独では「好漢」と表現されていない人物も、甲群に入れている」としている(p.99参照)。

初学者向け『水滸伝』関連図書:佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(5)

 前回の続きです。今回も佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(中公新書、1992)の第五章第五節「大豪傑への道」(pp.91-95)を読んでいきましょう。

 

 宋江は、閻婆惜を殺して江州の牢獄に送られるが、ここで自分の反逆の志をのべた漢詩を作ってその素性を見抜かれ、危うく獄門になるところであった。かれが江州の料理屋でひとり酒を飲んで作ったというその漢詩の第一首は、自分は幼いときから学問をおさめ、権謀術数に富んだ豪傑であるが、猛虎が荒れた丘に身を潜めるように爪牙を隠してきた。それなのにどうしてこんな罪人扱いに堪えられようか。いつかわたしが、この冤仇に報いるときには潯陽江(江州の辺りの長江の呼び名)の流れも血に染まるであろうというものである。この詩を壁に書きつけた宋江は大喜び大笑いで、また数杯の酒を飲み、おぼえずも物狂おしくなり、手は舞い足は蹈(おど)り、さらにもう一首をしたためる。

 

 心は山東に在るも身は呉に在り。江海に飄蓬して謾(そぞ)ろに蹉吁(なげ)く。他(いつ)の時には若し雲を凌ぐ志を遂げなば、敢えて笑わん黄巣は丈夫ならずと。

 

宋江は、いわれなき罪のため、江州にながされたが、心は山東梁山泊にある。いつまでこのような流離(さすらい)の身に甘んじられよう。いつか天下に雄飛して、唐朝を倒した黄巣も小せえ小せえといってやるというのだから、たいへんな意気込みである。しかし、実際の宋江は痴話喧嘩に端を発する刑事犯として逮捕され労役に服しているにすぎないので、そもそも復讐の相手などいないはずなのである。ましてやこの段階で黄巣のような、たとえその評価は別としても中国の歴史上指折りの大反乱の組織者となった人物とわが身を比較するなどとは理解しにくいことである。

 宋江はまた執念深くしばしば逆恨みをする。これは原宋江からもちこされた性格かも知れないし、あるいは恨みが小さいのは大人物ではないという哲学の所産かもしれない。中国のような広域的な社会、それも一方では散砂のようにバラバラで孤立的な小宇宙の集まりの観を呈しながら、ときのこの小宇宙を超えた大きな力がはたらく社会においては、小宇宙を超えた大きなつながりを恨みのなかに生きる人物のみが英雄となりうるからである。それはそれでたしかに盗賊集団の頭目としてふさわしい人格であろう。しかし、これを「冤(うらみ)には各の頭(あいて)あり、債(かり)には各の主(かして)あり」という武松と比べると、豪傑の気風に欠けることだけは確かである。このような人物が、おおらかで競争心なくふるまえるのは、梁山泊集団においてあらかじめかれの覇権が確立していたからであり、水滸伝の作者たちが、このような与えられた条件のもとで、やや急ぎ足に宋江に人集めをやらせた結果なのである。一言で言えば、水滸伝における宋江の人格が不可解であり、分裂しているのはこのような水滸伝の成立の過程そのものを反映しているのである。(pp.91-93)

 

 宋江が潯陽楼(潯陽江のほとりにある楼閣)の壁に反詩を書き付けるというくだりは有名な場面です。酒に酔っていたとはいえ、相当思い切ったことを詠んでいますね。「そもそも復讐の相手などいないはずなのである」というのは仰るとおりで、明末清初の金聖嘆はこの反詩の「他年若し冤讐に報ゆるを得ば、血は潯陽の江口を染めん(いつかもしも仇に報いることができたなら、血が潯陽の江口を染めるだろう)」という一節に「写宋江心事、令人不可解。既不知其冤讐為誰、又不知其何故乃在潯陽江上也(宋江の内心の描写は理解できない。その仇というのは誰で、どうして潯陽江のほとりで仇を報いようとしているのか)」との評語を残しています。物語ではその後、通判の黄文炳が反詩を見つけます。黄文炳がこの一節を読んで、「おまえは誰に仇を報いようとしているのだ!」、「ここ潯陽江で仇を報いようとしているんだな!」と感想を述べると金聖嘆はすかさず「我亦疑之(私もそれが疑問だ)」とコメントしています。黄巣の名を出したのもそうですが、宋江は酔っ払ってかなり気が大きくなってしまったんでしょうね。

 

 話は変わり、白話小説には往々にして挿絵が見られます。白話小説における挿絵文化は話本の影響を受けていると言えるでしょう。以前の記事でも触れたことがありますが、宋代では盛り場で盛んに講釈が行われ、講釈内容は話本として出回りました。その中の特に歴史物の話本に「全相平話」と名の付く話本が現存のもので『新刊全相平話武王伐紂書』・『新刊全相平話楽毅図斉七国春秋後集』・『新刊全相秦併六国平話』・『新刊全相平話前漢書続集』・『至治新刊全相平話三国志』の5種あります。「全相」とはつまり「全ページ挿絵入り」の意味で、全ページの上部にその場面の挿絵があります。ちなみに『新刊全相平話武王伐紂書』は『封神演義』の、『至治新刊全相平話三国志』は『三国志演義』の前身となる作品です。『水滸伝』の挿絵について言えば、容与堂本という版本では各回冒頭のページにその回の内容を描いた挿絵が1枚配置されています。

 第3図は現在伝わる百回本のうちもっとも勝れたものと考えられている容与堂本の第四十二回の挿絵である。この挿絵は、宋江九天玄女から天書を受ける姿を描いているが、小腰をかがめチョビひげをはやした宋江の姿は胥吏的英雄としてのかれの姿を実によく描いている。これに反して、図4の、よりのちに陳洪綬が描いた宋江の姿は、方臘の大反乱の鎮圧者、遼国討伐の英雄として、曹操劉備とみまがう大豪傑になっている。われわれはここに水滸伝的世界の完成の姿を見るのであるが、このようなフィクシオンの完成は、それをつうじて魯智深や武松といったほんらいの英雄もまた逆説的にその正しい位置付けを得たことを意味しているのである。 (pp.93-95)

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 確かに比べてみれば、 容与堂本の挿絵(第3図)より陳洪綬が描いた挿絵(第4図)の宋江の方が威厳があるように感じられます(この手の考察は主観的な判断が入りがちなので難しいところなのですが)。このように作品受容の調査には挿絵からのアプローチも可能です。

 

 さて、全5回に亘って佐竹靖彦『梁山泊』第五章を読んでまいりましたが、今回で本書を取り上げるのも最後です。本書第五章では一貫して宋江のキャラクターについて論じられていますが、ここまでお付き合いいただいた皆さまはきっと戯曲・綽名といった様々な角度からのアプローチの手法を体感できたのではないかと思います。第1回の記事にも示した通り、本書は非常に多彩な視点から『水滸伝』を論じています。興味を持たれた方は、是非本書を手に取っていただけたらと思います。

 

ぴこ

初学者向け『水滸伝』関連図書:佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(4)

  前回の続きです。今回も佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(中公新書、1992)の第五章第四節「宋江の弟、鉄扇子宋清」(pp.87-91)を読んでいきましょう。

 

 宋江の弟宋清は父の宋太公と共に田舎で農業をして暮らしています。宋清は特に大きな活躍をすることもないあまりぱっとしない人物で、最終的な肩書きも「宴会担当」という地味なものです。 佐竹氏は宋江の弟である宋清の「鉄扇子」という綽名から、宋江の人物像を紐解こうとしています。

 

 まず、宋清の綽名の意味や由来についてはいくつか見解があります。瞥見してみましょう。

 

 清・程穆衡『水滸伝注略』では、「扇子以鉄為之、乃無用之廃物(扇子が鉄で出来ているというのは、つまり役に立たないもののこと)」と解釈しています*1

 しかし曲家源氏は鉄扇子には貶義はないとします。宋代当時、扇子は涼を取るためのものと同時に、のんびり暮らす上流階級の若者が自分の身分を表すものであったと言います。悠々自適に農村で暮らしていた宋清が扇子を身につけていたために、鉄扇子という綽名になったと解釈しています*2

 王利器氏は『三朝北盟会編』巻205「由是守陴弓弩皆不発、王進出入以鉄扇為蔽、呵喝如常、人皆寒心悚惧」に見える鉄扇子が攻撃を防いだという記述を根拠に、宋江が閻婆惜を殺して追われているときに宋清が宋江を家に匿っていることから、宋清が鉄扇子のような役割を果たしたため綽名となったと考察しています*3

 他にも、元代の『銷釈真空宝巻』や『西遊記雑劇』に見える「鉄扇子」という呼称に由来するというような主張もあります*4

 

 前回の「呼保義」でも同様ですが、綽名の由来についての見解は様々で、どれが正しいのかというのは判断しづらいものがあります。

 さて、以上のような見解を頭の片隅に置いて、佐竹氏の見解を見ていきましょう。

 この点で興味を引くのは、宋江の弟宋清が鉄扇子という綽名をもっていることである。宋清自体ははなはだマイナーな人物であるから、その綽名についてもあまり研究はない。中国の王利器氏は、鉄扇子がわが上杉謙信の軍配のように敵の攻撃を禦ぐのに使われた例があることから、宋清が兄宋江の活動にたいする敵の攻撃を禦いだことをいうとする。たしかに鉄扇子が敵の攻撃を禦ぐのに使われた例はあるが、そのような一例でこのような判断を下すことはできない。だいたい水滸伝の兄弟の英雄の綽名はお互いに対応しているのが普通である。とりわけ位が下がる新参もので、したがってまた自分の綽名を、その段階での作者に考えだしてもらった英雄の場合には、この現象がはっきりしている。 地煞星の毛頭星孔明と独火星孔亮や出林龍鄒淵と独角龍鄒潤のような例がそれである。おなじく地煞星の鉄臂膊蔡福と一枝花蔡慶のばあいは、兄弟の処刑人であり、兄の蔡福の鉄の臂膊(うで)というのは首切りの腕前をいい、弟の蔡慶のばあいにはかれがつねに一枝の花を鬢に挿していることをいう。この場合にはふたりの綽名の間には一見なんの関係もないように見えるが、実はたとえば水滸伝の第四十二回で死刑執行の決まった宋江と戴宗の髪に「一朶の紅綾子の紙花」を挿してやってから、「長休飯(わかれのめし)」すなわち最後の食事をさせ、「永別酒(わかれのさけ)」すなわちこの世との別れの酒を飲ませているように、死刑囚はその死刑に際して、手向けに一枝の花を髪に挿してもらうのであって、蔡慶の習慣はここからきている。それは兄貴以上におそろしい綽名なのである。

 こうしてみると、宋江梁山泊の第一人者であり、宋清はなんの活躍もしない地煞星の下っぱであるから、この現象がきわめて明らかに出るはずなのに、王利器氏の説ではそれが説明できない。たとえば、西遊記鉄扇公主のもつ鉄の扇子は、ひとあおぎすれば火焰山の火がきえ、ふたあおぎすれば風がおこり、三べんあおげば雨が降るといわれているので、これを宋江の及時雨に対応すると考えるほうが、まだ可能性があるが、これでは呼保義と対応せず迫力がない。(pp.87-88)

 

 佐竹氏の述べている通り、兄弟間の綽名は対応している場合がほとんどです。上記以外にも没遮攔穆弘・小遮攔穆春、出洞蛟童威・翻江蜃童猛などがいますが、確かに佐竹氏の言う通り、一見して宋江と宋清の綽名が対応しているとは判断しづらいですね。

 

 冒頭でも宋清は「宴会担当」と言いましたが、佐竹氏は次にこの役割から「鉄扇子」の持つ意味と「保義」との関連を考えます。

 鉄扇子宋清の梁山泊の中の位置については、第七十一回の役割分担で「専一に筵宴を排するを掌管す」、すなわち宴会の幹事役にあてられていることが参考になる。これは芸人の芸名としての保義となんらかの関係はないであろうか。

 周知のように、中国の芸能、演劇において扇子の使用は重要な役割を演じている。たとえば京劇では扇子の使い方を扇子功といい、団扇(まるおうぎ)すなわちうちわ型の扇子、褶扇(たたみおうぎ)すなわちわがくに普通の扇子等の扇子の種類によってさまざまな扇子の使い方があり、また講釈師たちもつねに褶扇を用いること、わがくにの落語や講釈と同様である。つぎに第2図として示すのは、清末の四川は成都の茶館で、扇子をもって水滸伝三国志を語る講釈師の姿である。当時、成都のほとんどすべての茶館でこのような風景が見られたという。

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 また、南宋杭州の繁盛を描いた『西湖老人繁勝録』や『武林旧事』には、唱賺すなわち謡い語りの芸人に扇李二郎の芸名をもつものがいるが、これは扇子の使い方が巧みであったことから付けられたものであろう。水滸伝そのものにおいても、武芸百般、芸能百般に通ずるとされるいなせの燕青は「腰間(こし)に斜めに名人の扇を挿し、鬢の畔(はた)に常に四季の花を簪(かんざし)す」とうたわれているように常に扇子を身につけている。

 また、水滸伝の第五十一回「挿翅虎枷もて白秀英を打ち、美髯公誤って小衙内を失う」のところで、都の東京開封府からきた名女優白秀英を、扇子をもった老人が口上をのべて観衆に紹介する場面がある。念のために言えば、鉄扇子の鉄は、すでにみた鉄臂膊蔡福のみならず、鉄笛仙、鉄叫子、鉄面孔目等、とりわけ水滸伝の地煞星にきわめてよく出てくる形容であり、おそらくは明初のいいまわしで気持ちを伴った技能の冴え、あるいは技能を伴った気持ちの冴えをいう言葉であり、鉄で作られていることをいうのではない。

 このような事実から見ると、宋清の綽名鉄扇子とは扇子を使っての人の捌きに冴えを見せる名幹事の意であると考えてよい。呼保義とは「保義郎やあい」という呼び掛けの言葉と解されているが、この鉄扇子と対になる呼保義とはあるいは、これこそ宋江役の決まりという名優あるいは名講釈師某保義にたいする呼び掛けと考えられないであろうか。保義さん宋江の話をやってくれというわけである。水滸伝では宋江ははじめから呼保義であるが、その呼保義宋江が遼国燕青に成功して帰って保義郎を与えられる(引用者注:百回本第90回、百二十回本第110回)のは、奇妙なことである。宮崎氏はこれを賞罰の不公平は宋朝のでたらめなやりかたを皮肉ったのだと言われる*5が、すでに『大宋宣和遺事』にみえる水滸伝の筋書きで、宋江は方臘の反乱を鎮圧した功績によって節度使を与えられることになっているので、そこまでの皮肉はやや不自然であり、これはきわめて単純に、水滸伝の最終的作者は、保義郎も節度使も区別がつかず、そもそも呼保義を演劇史上の宋江についてまわったたんなる綽名として扱ったせいではないだろうかと思われる。そもそも当時の人々は、芸能上の宋江と歴史上の宋江との関連には興味も知識もあまりなかったようなのであるから。

 以上によって、おそらくは明初に、動きのない梁山泊の世界がダイナミックな水滸伝の世界へと動きはじめたとき、その主人公宋江はすでに歴史上の宋江とはほとんど繋がりのない演芸の世界の人物であったことが推測できる。

 たとえば水滸伝の世界における宋江の残忍さや小人物的な律儀さは、おそらく閻婆惜故事に見られる原宋江像に由来するのであろうが、この段階になって宋江はもうすこしひろい人格を身につけはじめる。しかし、このような人格は水滸伝の作者たる下級知識人が、水滸伝の話を楽しむはずの庶民にたいして通俗道徳をいいきかせるような、あるいはわが大江戸の大家が店子に人の道を言いきかせるような趣があり、はなはだ魅力に欠けるうえ、時に豪傑ぶりの大見得を切れば切るほどなかなかに滑稽である。(pp.88-91)

 佐竹氏は、

  ・演劇や講釈といった芸能において扇子が重要な道具であったこと

  ・「鉄」が「技能の冴え」を意味すること

を根拠に、「鉄扇子」とは「扇子を使っての人の捌きに冴えを見せる名幹事の意」であると考察しています。

 

 さて、兄弟の綽名が対になる傾向があるということから考えるに、鉄扇子が芸能に由来する綽名だとするのであれば、宋江の呼保義もやはり芸能と何かしら関連するものであると思われるわけです。

 前回の記事で「呼保義」が宋江を演じる芸人の肩書き「保義」に関連するという佐竹氏の見解を示しました。当初私は佐竹氏の見解の可能性について少々疑問を抱いていましたが、仮に宋清の綽名が芸能に由来するものであるのであれば、「呼保義」が「宋江を演じる芸人に対する呼び掛けに由来する」という佐竹氏の見解も説得力を持ってくるかと思います。この見解の是非はまた別の問題として、さまざまな角度から原宋江像を探ろうとする佐竹氏の姿勢と発想には非常に感銘を受けます。

 呼保義宋江に「保義郎」という肩書きを与えるのは奇妙であるが、これは官職に疎い作者が、芸能由来の綽名「呼保義」と官職「保義郎」とをそれぞれ独立したものとして扱ったために起こった現象であると考えています。このことから当時の宋江が「すでに歴史上の宋江とはほとんど繋がりのない演芸の世界の人物」になっていたのだろうと推測しています。

 

 ちなみに「宮崎氏はこれを賞罰の不公平は宋朝のでたらめなやりかたを皮肉ったのだと言われる」とありますが、宮崎氏が述べているのは呼保義宋江に保義郎という肩書きを与えることの出鱈目さではなく、遼国征伐で大活躍した宋江に官位の低い保義郎という官職を与えたことの出鱈目さであることに注意が必要です(佐竹氏の書き方ですと誤読される可能性もあるかと思いますので念の為…)。

 

 さて今回はここまで。次回は本章最終節を読んでいきます。本書の紹介は次回が最後の予定です。ではまた。

 

ぴこ

 

*1:朱一玄・劉毓忱『水滸伝資料匯編』(百花文芸出版社、1984第2版)収録程穆衡『水滸伝注略』(pp.429-493)、p.449参照。

*2:曲家源『水滸伝新論』、中国和平出版社、1995、p.118参照。

*3:王利器『耐雪堂集』、中国社会科学出版社、1986、p.159参照。

*4:盛巽昌補証『水滸伝補証本(上)』、上海人民出版社、2010、p.191参照。

*5:宮崎市定水滸伝――虚構のなかの史実』、中央公論新社、2017改版、p.61参照。

初学者向け『水滸伝』関連図書:佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(3)

 前回の続きです。今回も佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(中公新書、1992)の第五章第三節「宋江の綽名、呼保義の意味」(pp.84-86)を読んでいきましょう。

 

 閻婆惜殺しのエピソードに続いて、佐竹氏は宋江の綽名「呼保義」から宋江像の原型を探ります。

 宋江の原像をうかがわせるひとつの手がかりはその綽名である。かれは呼保義(こほうぎ)と及時雨(めぐみのあめ)という二つの綽名をもっているが、前者がほんらいのものである。この呼保義の意味するところについて、宮崎市定氏は宋代の武官の位を示す肩書きとしての保義郎が、のちに金持ちがおおくこの肩書きを金をだして買ったことから、金持ちを意味する呼び掛けの言葉となったとされ、呼保義すなわち保義を呼ぶとは、金持ちの旦那さん、やあい、ということであろうとされる*1。宋元期の保義郎という言葉の一般的な使われ方についての宮崎氏のこの説明はたしかにその通りなのであるが、宋江の綽名もまたそのように考えてよいかいなかはやや疑問である。

 宋江の綽名としての呼保義の初見は、宋末元初の「宋江三十六賛」であり、龔聖与はそこで宋江について「仮に王を称さずして、保義と呼ぶ。豈に狂卓にして専ら諱忌を犯すが若きや」と評している。この評語はなかなか難解であるが、宋江は反乱を起こしはしたが、一般の謀反人のように自ら王と称さず保義と称していたのは身のほどをわきまえているものというべきである、というほどの意味であろう。そうすると王に対していう保義とはやはり武官の肩書きそのものであろう。(pp.84-85)

 このあたりはどうしても推測の域を超えませんが、「保義」が当時ある程度一般的な武官の肩書きであるだろうということが分かります。宋江の物語内での肩書きは鄆城県の押司(上級書記)というものですので、武官の肩書きである「保義」が綽名として付けられるというのは少々違和感があります。これが史実に見える反乱者宋江の名残なのか、それとも当時実際に金持ちの呼称として一般化・定着していたものが宋江にも使われていたのかははっきりしません。

 龔聖与「宋江三十六賛」の宋江評ですが、原文は「不假称王而呼保義。豈若狂卓専犯諱忌」です。この一文の解釈は佐竹氏の言う通り難解です。例えば、荒木達雄氏は「假りて王を称さず保義と呼ぶ。豈に狂卓のごとく専ら諱忌を犯さんや」と読んでいたり*2、その解釈のブレは多少あります。余嘉錫に至っては「語意仍不明(意味はやはりはっきりしない)」と述べています。その上で余氏は「不假称王而呼保義」とは、自らを保義と卑下して称したという意味であるとしています。「豈若狂卓専犯諱忌」中の「卓」とは後漢董卓を指し、これは北宋末の傀儡国家の皇帝である張邦昌と劉豫に擬えていると解釈しており、董卓・張邦昌・劉豫らは狂妄な行いで憎まれたけれども宋江はその類いではないということを意味しているとしています*3。いずれにしても龔聖与の宋江評価はそこまで高くなかったわけです。

 『水滸伝』の登場人物の史実―物語間の考証をした人物としておそらく最も有名なのは余嘉錫でしょう。佐竹氏は余嘉錫の見解を引いて話を進めます。

また、中国の余嘉錫氏はその『宋江三十六人考実』で『宋会要』という宋代の制度史史料集録とでもいうべき書の、「兵」すなわち軍事関係の項目のところに「宣和三年(一一二一)十二月十九日、御筆(みことのり)を奉じたるに、河北の群賊自ら賽保義等と呼び、昨(さき)ごろ大名府界に於いて往来して過(とが)を作(な)せり」と記されていることに注目されている*4。宣和三年の御筆すなわち略式詔勅のなかで、賽保義と自称する河北の盗賊が、北宋の副都のひとつであった北京大名府で悪事をはたらいたというのである。賽保義とは本人から言えば保義以上、他人から見れば保義クラスということであろうから、宣和三年十二月以前に、某保義と称した豪傑がいたことになる。余嘉錫氏はこの某保義が宋江のことではないかと疑っている宋江はこの宣和三年の五月に投降したのであるから、この推測には可能性がある。このほか、本来敵対的であった武人に保義郎の位を与えて手なづけた話としては、南宋の首都杭州の繁栄を描いた『夢粱録』に、宋の初代皇帝太祖趙匡胤がクーデタを起こして後周王朝を乗っ取ったときのエピソードがある。このとき後周王宮の門衛の武士たちは主人に殉じて自殺したが、ただ喬と陸という名前の二人が門を守っていた。趙匡胤はこの二人を許して護衛に加え保義郎の位を与えて皇帝の行列の先駆の役にあてたところ、発奮した二人が命を捧げてこれに報いた。趙匡胤はこれに感じて二人をその職場で神として祭らせたところ、のちに宋朝が金に敗れて南渡したとき、この二人の神が、神威をあらわしたというのである。

 これらのばあいの保義郎とは金持ちという意味ではなく、まさに武官の肩書きとしての保義郎そのものであろう。このような点から見れば、現実の宋江が呼保義と呼ばれていたことは十分にありうると思われる。(pp.85-86)

  佐竹氏の言う通り、余氏の説や『夢粱録』の記載に見える「保義/保義郎」とは、やはり武官の肩書きと理解できます。『宋会要』に見える記述から、当時「○保義」と自称する盗賊がおり、宋江もその類いであろうと余氏は推測しているわけです。

 話は少々ずれますが、「宋江はこの宣和三年の五月に投降した」とあります。宋江の名が出てくる史料はいくつもあり、それらをもとに余氏や宮崎氏、高島俊男氏など、多くの研究者が所謂「宋江の乱」について考証しています。しかし、史料間の記述が錯綜していることから、その考証は非常に複雑なものとなり、宋江という人物が二人存在したという宮崎説など、多くの解釈が提唱されました。ごく最近、井口千雪氏が「宋江之乱考実」という論文を出し、「宋江の乱」についての研究史の整理及び新解釈の提唱がなされました*5。オンライン公開されていますので、興味のある方は是非読んでみてください。このブログでもいつか取り上げるかもしれません。

 

 本節の最後では、宋代芸能の視点から「呼保義」について検証しています。

 しかし、さらにまた問題を戯曲小説の主人公としての宋江から見れば、いまひとつ別の見方もできる。すでに引用した北宋末の首都開封の繁栄を描いた『東京夢華録』には、芸人の芸名として曹保義という名がみえている。これが南宋の首都杭州の繁栄を描いた『武林旧事』になると某保義と名乗る芸人は数えきれないほどでてくるが、なかでも興味を引くのは南宋の宮廷のお抱え芸人のなかに雑劇を演ずる王喜というものがいて、かれが保義郎頭であったと記されていることである。保義郎頭とは保義郎の頭ということであろうから、これによって宮中の芸人には武官の肩書きが与えられていたことが知られる。おそらくは、このように宮中お抱えの芸人たちに与えられる武官の肩書きを真似て、市井の芸人たちもまた保義等の芸名を称するようになったのであろう。水滸伝宋江の綽名としての呼保義は、このような芸能の世界の習慣となんらかの関係があったとは考えられないであろうか。(p.86)

 芸能の側面から言えば、「保義」という武官の肩書きが芸人に付けられる習慣があったようです。佐竹氏はあくまで可能性のひとつとして「なんらかの関係があった」と曖昧な書き方をして詳細な考察を避けていますが、佐竹氏の意味するところはおそらく、「当時の芸人は『保義』という肩書きを持つ場合があり、その芸人が講釈・雑劇で宋江を演じたことによって宋江と『保義』との関連付けに影響を及ぼした」といったところでしょうか。

 

 以上の内容から、宋江が「保義」との関係性についての可能性は以下のようにまとめられます。

  •  宋代では武官の肩書きである「保義」を金で購う人物が多く存在しており、一般的に金持ちに対する呼称として「保義」が定着していた。そのため、役人である宋江に対して「金持ちの旦那さん、やあい」といったことを意味する「呼保義」という綽名が付けられたという可能性。〈宮崎説〉

 

  • 宣和三年に武官の肩書きである「保義」を自称する賊についての記載が見られ、宋江も同様に「保義」を自称していたことに由来するという可能性。〈余嘉錫説〉

 

  • 宋代の芸能の世界では宮中お抱えの芸人に「保義」の肩書きを与える習慣があり、「保義」の肩書きを与えられた芸人が宋江を演じたことで宋江と「保義」との関連付けに影響を及ぼしたという可能性。〈佐竹説〉

 

 本書ではこれ以上の考察はされておりませんが、私自身は余嘉錫説が最も説得力を持つように感じられます。先にも少し示しましたが、余氏は『宋江三十六人考実』(pp.28-29)で史書などに見える「保義」の意味するところを精査し、龔聖与の評語及び宋江と「保義」との関係について考察しています。

 しかし宮崎説・佐竹説の可能性が無いかと言うと、決してそうとも限りません。市井の世界でも「保義」という呼称の使用が一般的に定着していたからこそ、「呼保義」という綽名が受け入れられ、語り継がれたのだと思います。

 

 さて今回はここまで。本章は残り二節です。少々長いシリーズとなっていますが、どうぞお付き合いください。次回は宋江の弟である鉄扇子宋清から、宋江のキャラクターを探っていきます。

 

ぴこ

*1:宮崎市定水滸伝――虚構のなかの史実』、中央公論新社、2017改版p.162参照。

*2:荒木達雄「宋江形象演変考」(『中国 社会と文化』(30)、pp.66-84、2015-7)、p.66参照。

*3:余嘉錫『宋江三十六人考實』、作者出版社、1955、p.28参照。

*4:注3余氏前掲書、p.29参照。

*5:井口千雪「宋江之乱考実」(『文学研究』、pp.39-76、2021-3)参照。

初学者向け『水滸伝』関連図書:佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(2)

 前回の続きです。今回も佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(中公新書、1992)の第五章第二節「喜劇的悲劇の主人公黒矮三郎宋江」(pp.80-83)を読んでいきましょう。

 佐竹氏は高島俊男氏・宮崎市定氏の述べるような宋江像に疑問を抱き、宋江像の原型を知るため、まずは宋江の閻婆惜殺しのエピソードについて検証を進めます。

 冒頭は水滸物語を題材とした雑劇「水滸戯」に見られる閻婆惜殺しに触れています。

 水滸戯の世界では、活躍するのは個々の豪傑であり、宋江にはことさらに親分や指揮官としての能力を発揮する必要はない。そこでは、宋江がちびで色黒で太っていてもとりわけて不都合はないであろう。ただし、この水滸戯で注目すべきことは、すでにここで宋江がもと鄆州鄆城県の胥吏であり、娼妓閻婆惜を殺したため逮捕され、江州の労役営に送られることになったという筋書きができていることである。この娼妓閻婆惜殺しの話は、現在の水滸伝にものこされており、その話の内容と語り口からして相当にふるい来歴をもっているものと感じられる。(p.80) 

 元代に入ると水滸戯が作られるようになりました。現存する元代雑劇は全6種あり(うち2種は明初のものとも考えられています)、明初までに成立したもので題名だけが残っているものを含めると20種以上あります。そして明代中期から明末、更に清代にも水滸戯は作られました。更に明代には『水滸伝』を題材とした伝奇も盛んに作られました。

 水滸戯については高島俊男水滸伝の世界』(筑摩文庫、2001)、小松謙『中國白話文學研究―演劇と小説の關わりから―』(汲古書院、2016)などでも詳しく論じられていますので、興味のある方はそちらもご覧ください。

 また、水滸戯の原文については傅惜華等編『水滸戯曲集』(全2集、上海古籍出版社、1985)が有用です。第一集は雑劇、第二集は伝奇が収録されています。

 冒頭にも書かれているように、水滸戯で中心となる人物は李逵魯智深といった豪傑たちであって、一部を除いて宋江はあくまで端役として登場します。水滸戯の定番の流れは、豪傑たちが梁山泊から下山し、勧善懲悪なりの展開を経て、再び梁山泊に戻ってくるというものです。宋江はその豪傑を物語の冒頭で送り出し、結末で迎え入れる役割を与えられる場合が多いです。『水滸戯曲集 第一集』に収録される水滸戯のうち、宋江が登場する作品及び登場する「折」(幕)を調べると次のようになります。「楔子」は主に冒頭に配置され、導入部の役割を果たしますが、折と折の間に置かれる場合もあります。

 

 元「黒旋風双献功」(全四折)…第一、四折

 元「同楽院燕青博魚」(全四折)…楔子、第四折

 元「梁山泊黒旋風負荊」(全四折)…第一、二、三、四折

 元「大婦小妻還牢末」(全四折)…楔子、第四折

 元「争報恩三虎下山」(全四折)…楔子、第四折

 元「魯智深喜賞黄花峪」(全四折)…第一、二、四折

 明「黒旋風仗義疎財」(全四折)…第一、二、四折

 明「豹子和尚自還俗」(折を持たない) …冒頭、結末

 明「梁山五虎大劫牢」(全五折)…第一、三、五折

 明「梁山七虎鬧銅台」(全五折)…楔子、第一、二、三、五折

 明「王矮虎大鬧東平府」(全四折)…第一、三、四折

 明「宋公明排九宮八卦陣」(全四折)…第一、二、三、楔子、四折

 明「宋公明鬧元宵」(全九折)…第三、八、九折

 

 ご覧の通り、多くの水滸戯で冒頭及び結末に宋江が登場します。特に元代の作品ではその傾向が強いことが分かります。

 

 雑劇で既に閻婆惜殺しの話が出来上がっていたことについて、佐竹氏は具体的な作品名を挙げていませんが、これは例えば次のような記載から明らかです。

宋江同呉學究領小僂儸上〕〔宋江云〕幼小爲司吏、結識英雄輩。某、姓宋名江字公明、綽名順天呼保義。幼年曾爲鄆州鄆城縣把筆司吏、因帶酒殺了閻婆惜、脚踢翻蠟燭臺、沿燒了官房、致傷了人命、被官軍捕盜、捉拿的某緊、我自首到官、脊杖六十、迭配江州牢城去。 (元・高文秀「黒旋風双献功」第一折)

 

 話は『水滸伝』における閻婆惜殺しの話題に移ります。ここで佐竹氏は閻婆惜殺しに関わる宋江の妾・閻婆惜とその母・閻婆、そして閻婆惜の浮気相手の張文遠の名前に注目しています。まずは張文遠についてです。

現在の水滸伝百回本では、この話は第二十一回の「虔婆酔って唐牛児を打ち、宋江怒って閻婆惜を殺す」にでてくる。独身の宋江が流れ者の母娘の面倒をみて、娘の閻婆惜を妾にするが、浮気者の閻婆惜から話は始まる。興味があるのはこの張文遠という色男とあつあつになってしまって宋江を袖にするというところから話は始まる。興味があるのはこの張文遠が、きわめつきの美男子で粋な男に描かれているうえ、宋江が輩行で宋三あるいは宋三郎と呼ばれるのと同じくかれも張三あるいは張三郎と呼ばれていることである。母親すなわち閻婆は宋江に見限られては生活が立たぬと心配して、気の進まぬ宋江をむりやり妾宅につれてくる。閻婆が階下から「お前の大好きな三郎さんを連れてきたよ」と声を掛けると、張三郎がきたとおもった閻婆惜は跳ぶように階段をおりてくるが、三郎ちがいと知ってまたぷいっと二階にあがってしまう。これはおそらく宋江が色黒で黒三郎と呼ばれていたのにたいして張文遠のほうは色白の美男子として白三郎と呼ばれていたのであろうし、宋江がちびであるのに対して張文遠のほうは背が高かったのではないだろうか。すれっからしというよりはむしろ粋できかぬ気の女が不粋な醜男をやりこめるという筋書きが、ちびで太った黒三郎と背が高くて風流な白三郎の組合せで強調されていたのであろう。(pp.80-81)

 佐竹氏が指摘している通り、作者は意図的に張文遠を宋江とは真逆の人物として描こうとしたことが分かります。張文遠と比べると宋江の醜男さは一層際立ちます。

 

 続いて閻婆惜の名前について『東京夢華録』を用いて考察しています。

ちなみに閻婆惜という名は、本来は閻という婆すなわち水商売の女将が店の娘の器量よしを惜しむという意味であろうが、すでに北宋末の都開封の繁栄を描いた『東京夢華録』(入矢義高、梅原郁訳、岩波書店)に、小唱すなわち「こうた」の名手の第一位が李師師、第二位が徐婆惜とみえている。この李師師が時の徽宗皇帝のお忍びの相手の李師師であったか否かはわからないが、徐婆惜の名前の付け方が閻婆惜と同じであったことはあきらかである。また、閻婆惜の母親が虔婆(やりてばば)といわれていることもおもしろい。やり手婆とその浮気な娘に翻弄される不粋なちび黒三郎というわけである。閻(えん)と虔(けん)は音がよく似ており、あるいは閻婆惜はもと虔婆惜からきているのかもしれないのである。(p.81)

 後の展開で重要な役割を担う李師師の名前の次に「徐婆惜」とあることからも、これが閻婆惜と関係している可能性は十分あると思います。

 宋江の女性に対する淡白さについては前回触れた通りです。女性の扱いに疎い宋江と、やり手婆の娘である閻婆惜とでは、閻婆惜の方が一枚も二枚も上手でした。佐竹氏が述べるように、この場面における宋江は閻婆と閻婆惜に振り回される人物として描かれています。

 (引用者注:宋江と閻婆惜とでは)これはどうみても宋江に分がわるい。水滸伝の作者は「原来宋江は是れ個(ひとり)の好漢にして只鎗と棒を使うを愛し、女色の上においては十分には要緊(だいじ)ならず」とか「宋公明は是れ個の勇烈の大丈夫にして、女色の為の手段は却って会せず(できない)」とか、さかんに宋江のために太鼓をたたいているが、実際の宋江は、金で閻婆惜の身を買いながら心まで買えない、ただ思い切りの悪いあわれなぐず男にすぎない。水滸伝ではこのあと梁山泊とのつながりの証拠を握られた宋江が閻婆惜を殺すことになるが、『大宋宣和遺事』のばあいには、宋江が情人といちゃついているなじみの閻婆惜に腹を立ててふたりを殺すことになっている。おそらくは、このほうが本来の筋書きであろう。(p.82)

  『水滸伝』と『大宋宣和遺事』の閻婆惜殺しの違いについて述べています。では実際に『大宋宣和遺事』の閻婆惜殺しに関する記述を見てみましょう。

 ある日晁蓋宋江が救命の恩義を思い、ひそかに劉唐を使として、謝礼の意をこめて、一対の金釵を宋江に贈った。宋江はそれを受けて、不覚にも馴染の娼婦閻婆惜に預けたため、機密が漏れて、事のいわれは閻婆惜の知る所となった。・・・(略)・・・宋江は幸い父の病気も全快したので、鄆城県の公署に帰ろうとして、馴染の閻婆惜を尋ねると、女の家には間夫の呉偉という男が来ていた。宋江は二人が睦まじく倚添っているのを見て、怒り心頭に発し、刀をとってその場に二人を殺し、壁に四句の詩を書きしるした。(吉川幸次郎・入矢義高・神谷衡平訳『古典文学全集第7巻 京本通俗小説・雨窓欹枕集・清平山堂話本・大宋宣和遺事』、平凡社、1958、p.267)

 怒りに任せて衝動的に閻婆惜を殺害したという点では『水滸伝』と『大宋宣和遺事』の宋江は共通していますが、そこに至る過程は異なります。『大宋宣和遺事』の宋江は自ら積極的に閻婆惜のもとを訪れている点、嫉妬が殺害の理由である点において、『水滸伝』で描かれるような女性に淡白な宋江像とは大きな距離があります。

 

 以上のことから、佐竹氏は宋江像の原型を次のように推定しています。

 姦通の物語としては、水滸伝にはこのほか、武松の潘金蓮殺しや楊雄と石秀の潘巧雲殺しの話があり、ともに緻密な心理描写によって異彩を放っている。武松の物語が、南宋以来の講釈師のレパートリーにあったことからして、それは長いあいだかかって洗練された語り物であると考えられるし、後者は林冲故事と相似たメリハリをもつ創作故事である。宋江と閻婆惜の話は元曲の宋江の自己紹介からしても、宋江が閻婆惜を殺したはずみに燭台を蹴りとばして役所が焼けて怪我人がでた、と話がおおげさで活劇的、すなわち戯曲的であり、水滸伝の閻婆惜故事は戯曲の影響を受けつつあった講談に由来すると思われるのである

 歴史上の人物としての宋江はどうであれ、水滸伝の閻婆惜故事にあらわれる宋江こそが水滸伝宋江の直接の原型であり、かつその人物像がこの喜劇的悲劇的活劇として人口に膾炙していたとすると、明初になって梁山泊の世界にダイナミックな動きが始まり、それがやがて水滸伝の世界として構成されてくるさいに、この原宋江としての宋江像が、新しく形成されつつあった宋江像を規定したであろう

 閻婆惜故事から見ると、この原宋江は嫉妬深く短慮、律儀ではあるが残忍ということになろうか。(p.83)

  ここに見える「宋江が閻婆惜を殺したはずみに〜」のエピソードは、まさしく先に引いた高文秀「黒旋風双献功」の一節のことを指しています。

 佐竹氏は宋江像の原型を「嫉妬深く短慮、律儀ではあるが残忍」と推定し、この原宋江像は現宋江像の形成過程で大いに影響を与えたとしています。佐竹氏の見解に基づいて考えれば、『水滸伝』の作者は閻婆惜殺しのエピソードに手を加え、原宋江像に見られた「嫉妬深さ」の要素を意図的に取り除きはしましたが、全体としては原宋江像を継承したと言えるのではないでしょうか。

 逆に、なぜ『水滸伝』の作者は宋江の「嫉妬深さ」を継承しなかったのかと言えば、そこには女性に対して潔癖な好漢像というものが大いに関係しているのでしょう。

 

 さて今回はここまで。次回は次節「宋江の綽名、呼保義の意味」を読み進めていくことといたしましょう。

 

ぴこ