聚義録

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李卓吾「忠義水滸伝叙」を読む

 今回は『水滸伝』百回本の代表的な版本である容与堂本の序文のうち、李卓吾「忠義水滸伝叙」を読んでいきたいと思います。この文章には李卓吾の『水滸伝』観が大いに表れていますので、明代の白話小説批評の点からしても、非常に重要な資料であると言えます。

 ちなみにこの文章は李卓吾焚書』に収録されています。「忠義水滸伝叙」の全訳として増井経夫訳(同氏訳『焚書――明代異端の書――』(平凡社、1969)、pp.220-222)があります。今回は内容の理解と同時に、黄霖編/羅書華撰『小説批評史料匯編校釈』(百花洲文芸出版社、2009、pp.225-229、以下『校釈』と略称)を参照し、増井氏の訳文についても考えていきたいと思います*1。尚、原文について、検討を要する箇所は太字にし、補足説明を要する箇所については下線を引いています。ご意見等ありましたらコメント欄にお願いいたします。

 

 李卓吾が提唱した学説に「童心説」というものがあります。「童心」とは、人間が生まれた当初の純粋に真なる心のこと*2であり、その「童心」から生まれた「古今の至文」のひとつとして『水滸伝』を挙げています。通俗文学を積極的に評価する李卓吾の思想は後世の文人に多大な影響を与えました。

 

 さて、「忠義水滸伝叙」ではまず、作者とされる施耐庵羅貫中が『水滸伝』を創作した動機について述べられています。

【原文】

 太史公曰、「『說難』、『孤憤』、賢聖發憤之所作也。」由此觀之、古之聖賢、不憤則不作矣。不憤而作、譬如不寒而顫、不病而呻吟也。雖作、何觀乎。『水滸傳』者、發憤之所作也。蓋自宋室不兢、冠屨倒施、大賢處下、不肖處上、馴致夷狄處上、中原處下。一時君相、猶然處堂燕雀、納幣稱臣、甘心屈膝於犬羊已矣。施羅二公、身在元、心在宋。雖生元日、實憤宋事。是故憤二帝之北狩、則稱大破遼以泄其憤。憤南渡之苟安、則稱滅方臘以泄其憤。敢問泄憤者誰乎。則前日嘯聚水滸之強人也。欲不謂之忠義不可也、是故施羅二公傳水滸而復以忠義名其傳焉。夫忠義何以歸於水滸也。其故可知也。夫水滸之衆、何以一一皆忠義也、所以致之者可知也。

 

【増井訳】

 太史公曰く、説難、孤憤は賢聖が憤りを発して作った所だと。これをみると古の賢聖は憤らなければ作らなかったので、憤らずに作れば、たとえば寒くないのに顫え、病気でないのに呻吟しているようなもので、作ったとてみるに足ろうか。水滸伝は憤りを発して作ったものである。宋室が振るわなくなってから靴を冠ぶるような倒さまばかりで、大賢は下におり不肖が上におり、夷狄を馴致して上におらしめ中原は下におり、一時の君相も同様で役所にいるのは燕雀であり、これに納幣して臣を称し犬羊に甘心屈膝しているばかりであった。施(施耐庵)、羅(羅貫中)二公は身は元朝にあっても心は宋朝にあり、元の世に生まれたとはいえ、実に宋の事を憤り、故に二帝の北狩を憤っては大いに遼を破ると称してその憤りを洩らし、南渡の苟安を憤っては方臘を滅すと称してその憤りを洩らした。あえて憤りを洩らす者は誰かと問うてみると、前日、衆を水滸に呼び集めた強人たちであり、これを忠義と謂うまいとしてもできないのである。この故に施羅二公が水滸に伝して、また忠義の名をその伝につけたのであった。どうして忠義を水滸に帰したのか、その理由も判っている。水滸の衆はどうして一人一人がみな忠義だったのか、そうなった理由も判っている。

 

太史公曰、「『說難』、『孤憤』、賢聖發憤之所作也。」

 これは『史記』「太史公自序」の「韓非囚秦、『説難』、『孤憤』。『詩三百篇』、大抵賢聖發憤之所爲作也」に拠っています。この考え方は「発憤著書」説と言われ、自身の不遇などへの憤懣をもとに書を著すというもので、司馬遷に始まります。

 

馴致夷狄處上、中原處下

 「馴致」とは「だんだんにその状態にさせる」という意味で、『易経』「坤」に用例があります(「馴致其道、至堅冰也」)。 ここは「次第に夷狄が上の立場に、宋朝が下の立場になっていった」といったような意味でしょう。

 

處堂燕雀

 増井訳では「役所にいるのは燕雀であり」と訳していますが、ここでいう「燕雀」とは具体的にどのような人物を指すのでしょうか。例えば、『漢辞海』では「小人物のたとえ」と説明されています。一方で『校釈』では、「處堂燕雀」とは「非常に危険な境遇にあるにもかかわらず、自分の状況は安楽だと思っていること」と説明され、『孔叢子』の「先人有言、燕雀處堂、子母相哺、煦煦然其相樂、自以爲安矣。竈突炎上、棟宇將焚、燕雀顔不變、不知禍之及己也」が引かれています。増井訳は原文の語句をそのまま使用する傾向があり、それ故に分かりづらくなってしまっている印象があります。

 

施羅二公

 『水滸伝』の作者について、明代は通常4種の説がありました。つまり、①施耐庵作者説、②羅貫中作者説、③施耐庵原作・羅貫中編纂説、④施耐庵原作・羅貫中続作説、です。李卓吾は③の説を採っています。容与堂本には撰者について書かれておらず、袁無涯本(=百二十回本の1種)には「施耐庵集撰羅貫中纂修」とあります。〈『校釈』〉

 

 李卓吾は、発憤して『史記』を著した司馬遷と同様、『水滸伝』も作者が発憤して創作した作品であると考えています。「二帝之北狩」とは徽宗・欽宗が金軍に拐われた靖康の変を指し、「南渡之苟安」とは靖康の変の後、宋室が南渡して南宋を興したことを指します。宋王室が被ったこれらの屈辱的な事件に憤った施・羅の二人は、梁山泊の好漢たちが「忠義」を尽くし、遼国征伐や方臘討伐を果たす物語を描くことでその憤懣を晴らした、というのが李卓吾の解釈です。

 

 

【原文】

今夫小德役大德、小賢役大賢、理也。若以小賢役人、而以大賢役於人、其肯甘心服役而不耻乎。是猶以小力縛人、而使大力縛於人、其肯束手就縛而不辭乎。其勢必至驅天下大力大賢而盡納之水滸矣。則謂水滸之衆、皆大力大賢、有忠有義之人可也。然未有忠義如宋公明者也。今觀一百單八人者、同功同過、同死同生、其忠義之心、猶之乎宋公明也。獨宋公明者、身居水滸之中、心在朝廷之上、一意招安、專圖報國、卒至於犯大難、成大功、服毒自縊、同死而不辭、則忠義之烈也、真足以服一百單八人者之心。故能結義梁山、爲一百單八人之主。

 

【増井訳】

大体、小徳は大徳に使われ、小賢は大賢に使われるのが理である。それがもし小賢が普通の人に使われ、大賢が小賢に使われたなら甘心服役して恥じずにおられようか。これでは小力をもって人を縛り大力のものを人に縛らせるようなもので、あえて手を束ねて縛に就いて辞さぬものがあろうか。その勢は必ず天下の大力大賢を駆って尽くこれを水滸に納めるに至ったのである。水滸の衆はみな大力大賢で忠あり義ある人といってよいが、しかしまだ宋公明のような忠義の者はいないのである。今百八人をみれば功も同じく過も同じく死も同じく生も同じであるが、その忠義の心は宋公明に及ぶものはなかった。独り宋公明は身は水滸の中におりながら心は朝廷の上にあり、一意招安、専図報国、ついに大難を犯し大功を成すに至り、服毒自縊、同死して辞せず、忠義の烈なるもので、真に百八人の心を服せしめるに足り、よく義を梁山に結ばしめ、百八人の主となったものである。

 

其忠義之心、猶之乎宋公明也

 増井氏は「その忠義の心は宋公明に及ぶものはなかった」としていますが、これは誤訳なのではないかと思います。ここで問題なのが「猶之乎」の解釈です。『漢語大詞典』では「猶之乎」は「猶之」と同義とされ、「如同(…と同じである)」と説明されます。それに素直に従えばここは「百八人の忠義の心は宋江と同じであった」という意味になります*3。どうして増井氏が真逆の解釈をしたのかは分かりません。例えば『漢辞海』「諸」項では「(「之乎」の縮約語である「諸(これ)」を)文末に置き、前の動詞の目的語と、文末の疑問・反語や感嘆の語気助詞とを兼ねる」と説明されています。文末に「之乎」が置かれれば反語として解釈も可能でしょうが、ここではそれも合いません。

 しかしながら、「しかしまだ宋公明のような忠義の者はいない」→「百八人をみれば功も同じく過も同じく死も同じく生も同じ」→「其忠義之心、猶之乎宋公明也」→「独り宋公明は身は水滸の中におりながら心は朝廷の上にあり」という文脈から考えると、ここは宋江の特殊性・特異性に焦点を当てているところなので、増井氏の解釈も理解できないわけではありません。当該文が「今觀一百單八人者、同功同過、同死同生」と、好漢たちの共通性について述べているという点も考慮に入れると、宋江ほどの忠義の精神を有する好漢はいないが、功過・生死を同じくするのと同様に、忠義の心を持っているという点においては宋江と他の好漢たちは同じである。しかし、宋江は他の好漢と異なるのは、その忠義の精神が国家に向いているという点である」と考えるのが良いのではないかと私は考えます。

 

 この一節では、賢明さや力強さが優れた者が劣った者を使役するという世の中の道理について述べています。その道理が逆転してしまった場合、「忠」にして「義」である「大賢」や「大力」の者は当然ながら憤りを覚え、その憤りに駆り立てられた彼らが自然と集った場所こそが梁山泊なのです。彼らは皆一様に非常に「忠義」な人物ですが、ただ宋江だけは違いました。宋江は身は水滸にありながら、心は朝廷のことを思い、ただただ招安して報国することだけを願っているような「忠義之烈」であり、それ故に梁山泊の首領たりえたのだと、李卓吾は考えました。

 

 

【原文】

最後南征方臘、一百單八人者、陣亡已過半矣。又智深坐化於六和、燕青涕泣而辭主、二童就計於混江。宋公明非不知也、以爲見幾明哲、不過小丈夫自完之計、決非忠於君、義於友者所忍屑矣。是之謂宋公明也、是以謂之忠義也。『傳』、其可無作歟。『傳』、其可不讀歟。故有國者不可以不讀。一讀此『傳』、則忠義不在水滸、而皆在於君側矣。賢宰相不可以不讀。一讀此『傳』、則忠義不在水滸、而皆在於朝廷矣。兵部掌軍國之樞、督府專閫外之寄、是又不可以不讀也。苟一日而讀此『傳』、則忠義不在水滸、而皆爲干城心腹之選矣。否則、不在朝廷、不在君側、不在干城腹心、烏在乎。在水滸。此『傳』之所爲發憤矣。若夫好事者資其譚柄、用兵者藉其謀畫、要以各見所長、烏睹所謂忠義者哉。

 

【増井訳】

最後に方臘に南征し、百八人の大半は陣亡し、また智深は六和に坐化し、燕青は涕泣して主を辞し、二童は混江で計に就いたが宋公明は知らないわけではなかった。明哲に幾(ちか)いというものをみれば小丈夫の自完の計にすぎず、決して君に忠で友に義なるものの忍んで屑(いさぎよ)しとするものではないとしたのである。 これが宋公明であり、これこそ忠義と謂えるものであり、伝を作らないでよいものだろうか。伝を読まないでよいものだろうか。故に国を有つものは読まなければならないものなのである。この伝を一読すれば、忠義は水滸に在らず、みな君側に在ることになろう。賢宰相も読まなければならないものなのである。この伝を一読すれば、忠義は水滸にあらず、 みな朝廷に在ることになろう。兵部は軍国の枢を掌り、督府は閫外の寄を専らにするがこれもまた読まなければならぬものである。苟しくも一日でもこの伝を読めば、忠義は水滸に在らず、みな干城心腹の選となろう。そうでなければ朝廷になく、君側になく、干城の腹心になく、どこに在ることになろうか。それは水滸に在ることになろう。この伝のつくる所は憤りを発したものである。事を好むものがその話の種にしたり、兵を用うるものがその謀画を借りたりするのはそれぞれ得意の所だけに注意するので、どうしていわゆる忠義をみるものであろうか。

 

二童就計於混江

 増井氏は「二童は混江で計に就いた」と訳していますが、これでは不十分であると思います。この解釈ですと「二童(童威・童猛兄弟)」が「混江」という場所で計略を実行した、ということを表しているように思われます。この一節は、『水滸伝』最終盤の方臘討伐後、暹羅国(シャム)に向かおうとする李俊の計画に童威・童猛がつき従ったことを指しています。故に、この「混江」とは「混江竜」、つまり李俊のことを指していると考えるのが無難でしょう。だとすれば、原文の「於」は受け身として「童威・童猛は李俊に計画に従わされた」といったような意味ではないでしょうか。

 

見幾明哲

 増井氏の「明哲に幾(ちか)いというものをみれば」という訳では意味が不明瞭です。「見幾」とは「事物の細かな変化から物事の前兆を予見すること」(『漢語大詞典』)という意味で、出典としては『易経』「繋辞下」に「君子見幾而作、不俟終日」があります。「明哲」とは「明哲保身(こざかしくて保身の術にたけている)」という成語の通りの意味合いでしょう。そのため、ここは「物事をよく観察でき、保身の術にたけている」のように解釈すべきでしょう。

 

閫外之寄

 「閫」とは「城郭の門の敷居」であり、「閫外」とはつまり「城郭の外」を指します。『校釈』では、将軍が軍隊を率いて城外に出征するので、「閫」より外は将軍が制すると言われるようになり、後に「閫寄」が将軍に出征させることを意味するようになったと説明しています(出典は『史記』「馮唐列伝」:「臣聞上古王者之遣将也、跪而推轂曰、閫以内者寡人制之、閫以外者将軍制之」)。つまり「閫外之寄」とは軍隊を率いて外域に出ること言います。

 

爲干城心腹之選

  「干」とは「盾」を指し、「干城」とは国家の防衛、或いは国家を守る兵士のことを言います(揚雄『方言』:「盾、自関而東或謂之干、関西謂之盾」、『詩経』「周南・兔罝」:「赳赳武夫、公侯干城」、孔穎達『五経正義』:「干城者、言以武夫自固、為捍蔽如盾、為防守如城然」)。「心腹」とは「腹心、忠実な部下」、ここでは「国家に対して忠誠を誓った者」を指します。つまり「爲干城心腹之選」とは「国家を守り抜く忠誠心の篤い人物として選ばれる」といった意味となります。

 

 この序文の末尾に「温陵卓吾李贄撰 庚戌仲夏日虎林孫樸書於三生石畔」と記されています。「庚戌」という記載から、容与堂本の刊行年は1610(万暦38)年という説が主流ですが、確定的な結論には至っていません。

 李卓吾は、梁山泊の首領ではあるものの、常に国家のことを考え、国家の平安を願った宋江に対して、「これこそ忠義と謂えるもの」として手放しで大絶賛しています。宋江の「忠義」を描いた「伝」こそこの『水滸伝』であり、国家に仕える者であれば必ず読まねばならないと繰り返します。そして最後には、『水滸伝』の一部分だけを切り抜くのは、この作品の本質である「忠義」を理解していない者のすることだと批判しています。

 李卓吾のこの序文の最大の特徴は、梁山泊の好漢たちを盗賊と見做すのではなく、その「忠義」を称賛している点にあると言えます。その考えは『忠義水滸伝』という書名に色濃く表れています。これは例えば、梁山泊を盗賊に過ぎないとして否定し、宋江の「忠義」を権謀術数によるものだと非難し、書名から「忠義」を削除した金聖嘆とは対照的です。

 

 さて、今回は李卓吾「忠義水滸伝叙」を読んでまいりました。「誨盗(かいとう)の書」として否定されることの多かった『水滸伝』ですが、李卓吾は「忠義の書」として絶賛しました。今まで『水滸伝』を読んだことがある方でも、「忠義の書」として改めて読んでみると、また違った面白さを発見できるかもしれませんね。

 

ぴこ

*1:「忠義水滸伝叙」の注釈本として黄霖・韓同文選注『中国歴代小説論著選』(江西人民出版社、1982)もありますが、注釈内容は『小説批評史料匯編校釈』とほぼ同文です。

*2:湯浅邦弘『中国思想基本用語集』(ミネルヴァ書房、2020)、p.209参照。

*3:例えば、馬場昭佳氏の博士論文「『水滸伝』の成立と受容:宋代忠義英雄譚を軸に」(2014-1)でもこのように解釈しています(p.32)。