聚義録

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金聖嘆「読第五才子書法」を読む(8)

 長らく更新が途絶えていた「金聖嘆「読法」を読む」シリーズですが、今回からまた読み進めていきます。「文法」の解釈は難解な部分も多いですが、適宜先行研究を参照しつつ、少しずつ読んでいけたらと思います。

 

【52】

有夾叙法。謂急切裏兩箇人一齊說話、須不是一箇說完了、又一箇說、必要一筆夾寫出來。如瓦官寺崔道成說師兄息怒(※)、聽小僧說、魯智深說你說你說等是也。

(※)第5回の該当部分は「師兄請坐」となっている。

 

 〔訳〕

夾叙法というものがある。切迫した中で二人が同時に話し出し、一方が言い終わらないうちに、もう片方が話し出す様子を、一筆差し挟んで描き出す必要があることを言う。例えば、瓦官寺の崔道成が「あにき、怒りを鎮めて、拙僧の話を聞いてください」と言い、〔それと同時に〕魯智深が「さあいえ、さあいえ」と言ったことなどがそれである。

 

 現実世界の会話というのは、必ずしも一人が言い終わってから、別の人が話し出すとは限りません。当然ながら複数人が同時に話し出すことも有り得るわけですが、文字を媒介とする文学作品ではそれを完全に表現するのは容易ではありません。そこで金聖嘆が用いた手法が「夾叙法」です。

 夾叙法については、拙稿「金聖嘆本『水滸伝』の会話場面」で詳しく論じておりますので、詳しくはそちらを見ていただけますと幸いですが、ここでは金聖嘆が読法に挙げた、金聖嘆本第5回の魯智深と崔道成の会話場面を見てみましょう。

 

●百二十回本

那和尚便道、「師兄請坐。聽小僧説。」智深睜眼道、「你說你說。」那和尚道、「在先敝寺〜

(和尚(=崔道成)はすぐに言った、「あにき、どうぞおかけなすって。拙僧の話を聞いてくだされ。」魯智深はかっと目を見開いて言った、「さあいえ、さあいえ。」和尚は言った、「以前はこの寺も〜)

 

●金聖嘆本

那和尚便道、「師兄請坐。聽小僧」智深睜眼道、「你說你說。」「。在先敝寺〜

(和尚はすぐに言った、「あにき、どうぞおかけなすって。拙僧の話を聞いてくだ」魯智深はかっと目を見開いて言った、「さあいえ、さあいえ。」「され。以前はこの寺も〜)

 

 夾叙法の用法は厳密にはいくつかありますが、これが最もわかりやすい例かと思います。ここで金聖嘆はテキストに改変を加えています。ここでの改変は大きく2点。

 

  ①:「聽小僧説」を分割し、「説」のみ後ろのセリフに統合

  ②:伝達節「那和尚道」を削除

 

この2点によって、崔道成が言い終わるのを待たずして、魯智深が興奮して口を挟んだ様子を描こうとしたのです。特に②は(例外はありつつも)夾叙法の特徴であると言えます。

 

 

【53】

有草蛇灰線法。如景陽岡勤叙許多哨棒字、紫石街連寫若干簾子字等是也。驟看之、有如無物、及至細尋其中便有一條線索、拽之通體俱動。

 

 〔訳〕

草蛇灰線法というものがある。例えば、景陽岡で念入りに多くの「哨棒」の字を記し、紫石街で続けざまにいくつもの「簾子」の字を書いていることなどがそれである。ぱっと見ただけでは、何も物が無いようであるが、細かく見ていくとその中に一筋の糸口があり、この糸口を手繰り寄せると全体が一緒になって動くのである。

 

 草蛇灰線法とは、ある特定の語句を繰り返し繰り返し用いる手法です。そして、その特定の語句が反復的に使用されると、金聖嘆は「●●一」「第二●●」などの評語を附して数え上げています。【52】に示されている例について言えば、第22回では「哨棒」(=警棒)が18回、第23〜25回では「簾子」(=すだれ)が16回も数え上げられています。

 場面を象徴するキーワードを繰り返し示すこの手法は、読者にその語句を意識させたり、一連の描写に統一感を持たせたりする効果があります。「其中便有一條線索、拽之通體俱動」とは、特定の語句(一條線索)の連続使用によって、一連の場面描写が連続性・統一性を有している(拽之通體俱動)ことを言っているのです。

 

 夾叙法と草蛇灰線法については、例えば北村真由美「『水滸傳』の文体――「金聖嘆本」の読法をめぐって」(『中国文学研究』第27期、pp.120-133、2001-12)などでも詳しく論じられていますので、是非ご参照ください。

 

 

【54】

有大落墨法。如呉用說三阮、楊志北京鬬武、王婆說風情、武松打虎、還道村捉宋江、二打祝家莊等是也。

 

 〔訳〕

大落墨法というものがある。例えば、呉用が三阮を説得すること、楊志が北京で戦うこと、王婆が情愛を説くこと、武松が虎を打つこと、還道村で宋江を捕らえること、祝家荘を二度攻撃することなどがそれである。

 

 「大落墨法」について、ここでは特に説明がされていません。この手法について、第26回で、張青が妻・孫二娘に「まず第一に行脚している僧侶を殺してはならない」と常々言い付けていると武松に話した場面に次のような評語が見えます。

 

奇文。◯張青爲頭是最惜和尚、便前牽魯達、後挽武松矣。布格展筆、如畫家所稱大落墨也。

(素晴らしい文。◯張青がまず第一に和尚を大切にするというのは、先には魯達と繋がり、後ろには武松を引き出す。この配置や展開の筆法は、画家の言うところの「大落墨」の如くである。)

 

 「大落墨」の淵源と発展については、楊志平「釈”大落墨”――以《紅楼夢》張新之評本為中心」(『紅楼夢学刊』、2007年第5輯、pp.82-95)という論文があり、ここで詳しく論じられています。

 楊氏は、大落墨は南宋紹定年間の画家である胡彦竜の独特の画法に起源を持ち、それを金聖嘆が小説批評に持ち込んだと述べます。金聖嘆本における大落墨法は、作中人物の代表的な性質の描写呉用說三阮、楊志北京鬬武、王婆說風情、武松打虎、還道村捉宋江、あるいは複雑なストーリーの中において極めて重要な一連の場面の描写呉用說三阮、還道村捉宋江、二打祝家莊)に対して用いられており、それらを鮮明化する効果を有するとしています。またそこから考えると、先に引いた張青に対する「大落墨」は、張青が僧侶や道士と好んで契りを結ぶという特徴の強調を意図していると考察しています。

 

 私自身、中国絵画史や画法についての知識が足りず、前代までの画法や画論が金聖嘆の小説批評にどの程度影響を及ぼしたかについてこれ以上言及できませんが(CNKIで調べてみるとどうやらいくつか論文があるようですので今後勉強します)、大落墨法の例を見る限り、その影響は決して微々たるものではないように思われます。

 

 さて、やや短いですが、今回はここまでといたします。「読法」も段々と終盤に近づいてきました。読み終えるまでもう一息、頑張りたいと思います。ではまた。

 

ぴこ