聚義録

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大木康『中国明末のメディア革命』を読む(2)

 前回に引き続き、大木康『中国明末のメディア革命』(刀水書房、2009)の第1章「中国書籍史における明末」を読んでいきます。今回は明代の話に入ります。

 

●明代、嘉靖・万暦期の大変化(pp.28-31)

 大木氏は、漢籍の総合目録である楊縄信『中国版刻綜録』を用いて、宋から明末までの刊行出版状況の大まかな傾向を調査しています。

 

 これを見ると、宋から明末までの刊行点数三〇九四点のうち、実に六五%を占める二〇一九点が、嘉靖・万暦から崇禎に至る明末の約一〇〇年の間に刊行されていることが確認できる。〔…〕もし宋代以来、出版量がほぼ一定であったと仮定した場合、古いものほど少なくなり、新しいものほど多くが残るであろうから、書籍の現存点数は、〔…〕均斉のとれたピラミッド状になるであろう。ところが実際には、宋、元そして明初、明中期までのものが極端に少なく、嘉靖・万暦以後のものが極端に多い〔…〕。これは、明の嘉靖・万暦期に何らかの大変化が起こったことを示していると考えるよりほかあるまい。(pp.29-30)

 

 明末当時、書物の量や種類が拡大していたことを示す例として、万暦20年(1592)の進士・謝肇淛『五雑組』巻13「求書」を引いています。

 

★謝肇淛『五雑組』巻13「求書」

 書物を求める方法については、鄭樵の『通志』ほど詳細なものはなく、胡応麟の『経籍会通』ほど精密なものはない。後に著作をするものがあっても、それにつけ加えるものはない。最近になって、変わった書物があいついで出され、何から何までが出版されている。旧家の壁に塗り込められていたものもあれば、好事家の家の帳のなかにあったものもあり、東観(後漢の宮中の図書館)の秘書、昭陵に殉葬されたもの(唐太宗の墓に王羲之の真跡をはじめとする図書文物が収められた)もあれば、伝記を集めたもの、あるいは鈔録した残余もあるが、その間には、たよりにならないあやまり、にせものなどが絶対ないとどうして保証できようか。(p.30)

 

 

●顧炎武の蔵書(pp.31−33)

 ここで清朝考証学の先駆けをなした顧炎武の「鈔書自序」の一節が引用されます。

 

★顧炎武「鈔書自序」(『亭林文集』巻2)

 炎武の祖先は、海のほとりに住み、代々学者であった。高祖(祖父の祖父)が給事中の官についたのは正徳年間(一五〇六〜一五三一)の末のことであった。そのころ天下ではただ王府と官庁、そして建寧(福建)の書坊(出版業者)だけが書物の版木を持っていた。世上に流布していたのは、「四書」「五経」『資治通鑑』及び『性理大全』などの書ばかりであった。その他の書物となると、たとえ刊行されたものがあったとしても、古のことを好む家でなければ所蔵していなかった。それでも我が家には、すでに六〜七〇〇〇巻の書物があったのである。(pp.31−32)

 

ここには正徳年間ごろの書物の様子が記されており、次のことが分かります。

 

 ・当時の出版が行われたのは、王府・官庁・福建の書店であった

 ・出版内容は主に「四書」などの一般的あるいは実利的なものであった

 ・他の書物は刊行されても流通量が少なく、普通の家では多くの書物を持つことはなかった

 

 「鈔書自序」は続けて嘉靖年間以降の状況についても記しています。嘉靖年間に倭寇のために6〜7000巻の蔵書は全て焼失してしまいましたが、顧炎武の曽祖父・顧章志は以前の蔵書量を上回る書物を一代にして集めることができたそうです。このことから次のことが言えます。

 

 ・万暦当時、書物が増え、多くの書物が市場に出回っていた

 ・宋元版などでない限り、手頃な価格であった

 

 顧章志の蔵書の一部は、顧炎武の祖父が継ぎ、祖父・父の二代で再び蔵書量は増えたといいます。大木氏は「このように完備された蔵書を背景にして、考証的学問の一つの極致を示したといってよい『日知録』をはじめとする顧炎武の著作も、可能になった」(p.33)と述べています。

 

 

●明末、出版文化人の登場(pp.33-38)

〈明末の出版文化の隆盛を示す特徴〉

☆特徴①:新刊書の増加

 明末になると、前人による書物や古典に加えて、同時代人による書き下ろしの書物の刊行が多くなりました。(※謝肇淛『五雑組』参照)

 

☆特徴②:「出版文化人」の登場

 明末になると、出版業によって生活を立て、それで名声を得たいわゆる「出版文化人」が数多く現れました。

 

◎陳継儒(1558-1639)

銭謙益の『列朝詩集小伝』丁集下「陳徴士継儒」に次のような一節がある。

 

 陳継儒はまた、呉越間の貧しい儒者や年老いた僧侶道士で、生活に困り餓えこごえている者を招き集めて、書物のなかから章節や語句を探しては切り取らせ、それを分類し、こまごまとした話や平素見かけない事柄を取ってきては、それらをかき集めて新たに書物を編み、遠近に流伝させた。知識見聞の少ない者は、争って買い求め、枕中の秘とした。かくして陳継儒の号である眉公の名は天下を揺り動かしたのである。遠くは異民族の酋長たちまでもがみな彼の詩文を乞い、近くは酒楼茶館ではどこでもその画像を掛けた。はなはだしきは、小さな村や町で味噌醤油を売るような者までが、彼らの商品に眉公の名をつけないものはなかった。地方官たちが都で報告する時に、推薦状に陳眉公の名がないことはなく、天子もその名を聞いて、しばしば詔を下して徴用しようとした。

 

〔…〕さて、陳継儒は、もともと科挙による栄達をめざし、科挙の試験を受けつづけていたが、合格できず、二九歳の年に科挙の道をあきらめ、山にこもって隠者になる。しかしながら、隠者であった陳継儒は、右のようなアルバイトを使った切り貼り作業によって、多くの書物を編纂刊行したのであった。このようにして作られた書物が飛ぶように売れ、陳継儒の名は当時の社会にあって、上は皇帝から下は村里に至るまでの広い階層に、とどろき渡ったのである。(pp.34-35)

 

李贄李卓吾、1527-1602)

李贄の)思想が流行現象を見せた背後には、著書がどんどん印刷され、広まっていったことがある。李卓吾は、当時の小説戯曲などの批評家としても知られ、周亮工『書影』巻一に次のようなことが見える。


 葉文通、名は昼、無錫の人である。多くの書を読み、才情に富んでいたが、仏教道教に心を寄せ、ことさら変わった行動をとっていた。(中略)李卓吾の『焚書』『蔵書』などが流行していた時のこと、出版界では種々の書物が李卓吾の名を借りて通行していた。だが、『四書第一評』『第二評』『水滸伝』『琵琶記』『拝月記』などの批評は、いずれも葉文通の手から出たのである。

 

 つまり、もっぱら李卓吾評を偽作する人物までがあったわけである。李卓吾も、そしてまたこの葉文通なども、その名を当時の「出版文化人」の列に加えることができるだろう。

 

 

☆特徴③:出版の主体の変化

〈中国における出版の主体〉

 ・官刻=中央あるいは地方の官署がお金を出して出版

 ・家刻=個人がお金を出して出版

 ・坊刻=書店による商業出版

阿部隆一「宋元版所在目録」を見ると、宋元版においては明らかに官刻の書物が多い。それに対して、明末に至ると、家刻と坊刻の比率が高くなっている。つまり、中国出版史においては、官刻から坊刻へと次第に推移する傾向を見ることができるのである。(pp.36−37)

 

 李詡『戒庵老人漫筆』には、科挙合格者の答案が印刷出版されていた当時の状況が記されています。

 

★李詡『戒庵老人漫筆』巻8「時藝坊刻」

 わたしが若いころ、科挙の試験勉強をしていた時には、学生の小論文(ここでは八股文のこと)が刊本になることなど決してなかった。利にさとい書店が、友人たちの家に出入りして、窓辺で小論文数十篇、各篇ごとに二、三〇枚も書き写して、わたしの家塾にやって来る。こちらはそのうち幾篇かを選んで買い求め、一篇ごとに二文か三文の値段であった。唐順之が会元(郷試の首席)として及第した時、その答案も無錫出身の門人である蔡瀛が、その親戚の一人とともに刻したものであった。薛応旂が合格した時、その三つの答案はわたしがその常熟の門人銭夢玉に勧めて、東湖書院で印刷させた。当時はまだ書店による版本があったとは聞いていないが、いまはどれもこれもみな坊刻(商業出版)になってしまった。これもまた世の風気が華美になったことのあらわれの一つである。(p.37)

 

 今でも、高校大学受験などの過去問題集は非常に一般的なものとして大いに出回っていますが、当時も同じだったということが分かりますね。

 

 

●大規模な叢書の刊行(pp.38-41)

☆特徴④:大規模な叢書の流行

 明代以前にも既に叢書の刊行は始まっていましたが、明末には、宋元時代の叢書の再刊に加えて、数多くの叢書が新たに編纂・刊行されました。

 

 叢書のなかには、ある程度まとまったテーマに沿って書物を集めている場合もあるが、編者が入手した種々雑多な珍しい書物を集めて刊行する場合が多かったようである。自分が持っている何か珍しい書物を出版することは、名声を獲得する一つの手段でもあった。(p.39)

 

 大木氏はこのように述べ、呉敬梓『儒林外史』第8回に見える、蘧公孫が偶然入手した珍しい書物(『高青邱集詩話』)を出版して名声を得た話を引いています。

 

 刊行の目的はどうあれ、叢書の出版が文人に及ぼした影響は非常に大きいものでした。

 名を挙げるためとばかりいってしまうと、叢書について否定的に過ぎるが、こうした叢書の刊行が、読書人に与えた影響には計り知れないものがある。それまで、なかなかみることがかなわなかった書物が、叢書一つを購入することで、手元に置いて見られるようになったのであるから。

 先に引用した(31頁参照)清代初期の考証学者である顧炎武の場合も、その蔵書の少なからぬ部分が叢書だったにちがいない。多くの資料、多くの版本を用いて文献研究を行なう考証学という学問が、そもそも多くの書物を参照できないところには起こり得ない学問であることを考えると、清代の考証学は、明末のメディア革命、とりわけ叢書の刊行によって刺激を受けたであろうことは、言をまたないのである。(p.41)

 

 

●明末の読者と書物の価格(pp.41-45)

☆疑問:明末になぜ出版がこれだけ盛んになったのか?

★理由:書物の読者がそれ以前に比べて増えたため

 

 ここで大木氏は社会階層を分けたピラミッド・モデルを想定し、社会を大きく識字層(Ⅰ)と非識字層(Ⅱ)に分け、更には識字層を皇帝を頂点とする官僚・郷紳・大商人の上層階級(Ⅰ―①)と、科挙受験生・都市の中規模の商人・僧侶・道士などの中間層(Ⅰ―②)に分けました。

 

 このⅠ―①に属する人々が、書物の購読者として最もふさわしい人々であることはいうまでもない。しかし、こうした人々は、明末に限らず、いつの時代にあっても書物の購読者であったろう。明末に出版が盛んになった背景には、端的にいえば、このⅠ―②の部分、つまり科挙の受験生や商人たちが、それ以前の時代に倍して、書物を買って読むだけの余裕が増えたことによると考えられる。科挙と出版には深い関係があるのである。

 科挙の本試験である郷試を受験するためには、まずその予備試験である童試に合格して、各地に置かれた学校の学生である生員の資格を得なければならない。その生員が、明末当時には全国で五〇万人を下らなかったといい、とりわけ南京、蘇州など経済的な先進地域であった江南地方の大都市になると、一つの学校に一〇〇〇人からの生員があったという。童試の受験生を数えれば、さらに多くの受験生があったことになる。その彼らは、何といっても科挙儒家を目指すからには、文字を識り、書物の購買者、読者としてふさわしい人々であった。明末にはこうした読者層としての生員が、前代以上に増えたのである。(pp.42-43)

 

 また、科挙受験生が増えただけでなく、商人たちも通俗的な書物を買って読むようになっており、それだけ読者層が拡大していたことが分かります。

 

 

☆疑問:明代における書物の価格はどうだったのか?

当時にあっては、現在のように定価というものはなかったようで、基本的には本のどこを見ても価格が書いてあるわけではない。しかしながら、時に書物の封面(扉)の部分に、価格を書いた印が捺してあることがある。それらを見ると、たとえば、

 『万宝全書』――銀〇.一両

 『新調万曲長春』――銀〇.一ニ両

 『曾南豊先生文集』――銀〇.八両

 『列国志伝』――銀一両

 『封神演義』――銀二両
といったところで、もちろん質により量によってさまざまながら、書物の価格は、おおむね銀一両以内、平均すれば銀〇.五両といったあたりであろう。当時の県知事クラスの官僚が政府から支給される月給がおよそ銀一二両だったという。実際には給料以外の収人があるから、収入はより多くなるのだが、だとすれば、支給された月給の五%から一〇%で一部の本が買えたことになる。これを高いと見るか、安いと見るかは微妙なところであるが、一般的にいって、明末における書物の価格は、少なくとも本を買って読もうという意志を持った人にとっては、安かったといえるのではなかろうか。(pp.44-45)

 

大木氏も言っていますが、一部の書物が月給の5〜10%とは、高いのか安いのか私には判断できません(当時の物価や一般的な支出状況などを考慮に入れる必要があるでしょう)。でもこのように具体的な金額が分かるだけで、当時の人々の生活がほんの少しイメージできるようになりますね。このような社会的・経済的な角度から文学の受容状況を調査するのも面白いと思います。

 

 さて、今回で本書を扱うのは終わりになります。第2章以降も非常に興味深く、濃い内容です。特に明末の出版や受容状況に関心のある方にはオススメです。ではまた次回で。

 

ぴこ