聚義録

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大木康『中国明末のメディア革命』を読む(1)

 今回からは、大木康『中国明末のメディア革命 ―庶民が本を読む―』(刀水書房、2009)の中から、第1章「中国書籍史における明末」を読んでいきたいと思います。ちなみに、本書の前段階的な書籍として『明末江南の出版文化』(研文出版、2004)がありますので、余裕がある方は合わせて読めば、より理解が深まるかと思います。

 

 まず、タイトルにある「メディア革命」について大木氏は次のように述べます。

 明末、およそ嘉靖年間ごろから、多くの書物が出版されるようになった。それは、今日日本の図書館でさえ、全面的な貴重書扱いを不可能にするといってよいほどの(引用者注:この前で、大木氏は、中国書に関しては嘉靖元年以前に刊行されたかどうかを貴重書として扱うかの判断基準とする図書館が多いと述べる)、爆発的な分量なのであった。(「はじめに」、p.Ⅱ)

 

 本書第1章では、中国書籍史、特に木版印刷史の中における明末の位置づけについて論じています。出版や受容といった視点も文学研究には非常に重要となります。今回は明代以前について述べられた部分について、適宜要約しつつ読み進めていきたいと思います。

 

●「陀羅尼」に始まる印刷(pp.16-19)

 以下は、本節の内容を大まかに要約したものです。

 

 現存最古の印刷物は韓国慶州仏国寺の釈迦石塔から発見された「大陀羅尼経」とされ、則天文字が用いられていることからおよそ700年ごろに印刷されたものと考えられています。その他、成都の唐代の墓から出土した「陀羅尼経呪」(757年)、日本で印刷された「百万塔陀羅尼」(764年)など、初期の印刷物は「陀羅尼」がほとんどで、書物ではありませんでした。出土状況や当時の文化や技術から考えて、印刷技術は長い時間をかけて中国で唐代初め(7世紀頃)に完成されたと言えます。

 

 一枚物の陀羅尼ではなく、印刷された書物として最古とされるのは、敦煌出土の『金剛般若波羅蜜経』(868年)です。巻頭には精緻な仏画を付し、七枚の紙を貼り継いだ巻子本となっています。

 また、865年に日本に帰国した留学僧宗睿が持ち帰った『新書写請求法門等目録』に「西川(四川)印子(印刷された書物)『唐韻』一部五巻 同印子『玉篇』一部三十巻」と見え、実用的な印刷物もあったことが分かることなどから、9世紀の唐末頃には印刷がかなり普及していたと言えます。

 

 印刷の利点は、同じものを数多く作れることであるから、字書、暦など需要の多い実用的なものが印刷されたものも、もっともなことである。だが、ここまでに挙げた初期の印刷物は、その大部分が仏教に関わるものであることは注意されてよい。印刷術はほぼまちがいなく仏教の世界、あるいは少なくとも仏教にごく近いところで発明されたといってよいのではないかと思う。(pp.18-19)

 

●仏教の世界と印刷術(pp.19-20)

☆疑問①:なぜ仏教の世界において特に印刷術が発達したのか?

 

 前節を読めばこの疑問が浮かび上がるのはごくごく自然なことでしょう。これについて大木氏は二つの理由を挙げます。

 

★理由①

仏教にはもともと数の多さを問題にする傾向がある。先の百万塔しかり、千手観音しかり、また千仏洞しかりである。多くの仏像なり、経典なりを作る必要があったこと、これが一つの理由である。(p.19)

 

★理由②

仏教においては、多くの人に教えを伝えるべきことが、はじめから教理に組み込まれていたのであり、そこに印刷物が必要とされる必然性があった。仏教(また道教でも)の善行の一つに「印造経文」が挙げられる。経典を印刷し、広く人々に施すことは、大きな善行であり、それが果報を生むとする考え方である。その後の膨大な量に及ぶ「大蔵経一切経)」の刊行、また信徒が施しとしてお金を払って仏典を刊行し、それらを寺院などに置いて無料で配布する、今日でも行なわれている善書の風習など、仏教徒印刷には深い関わりがある。儒教が中国における国家教学として早くから権威づけられていたのと比べると、新興であった仏教はそれだけ広い範囲への布教の必要に迫られ、それが印刷物の利用に結びついたのではないかと思われる。(pp.19-20)

 

 このようにどうやら仏教と印刷の密接な関わりを持っていたらしいことが分かりましたが、大木氏はこのように続けます。

 

とはいえ実際には、むしろ施しをすることそのものに意味があったようで、印刷された大量の仏典をほんとうに多くの人が読んだかどうかは定かではない。逆に今日の写経など、手ずから心をこめて経典を書き写す行為の方により多くの意義を認めるとすると、印刷というのはある意味できわめて安直な行為であったといえなくもない。唐の時代に中国から日本に将来された仏典は、僧侶たちの手によってもたらされたものと思われるが、それらのうちに印刷された仏典がなかったことは、この想像を裏打ちするかもしれない。(p.20)

 

 既製品を買うよりも自分で苦労して作り上げたものの方が価値がある、といったような考えに近いでしょうか。なんだか人間味があって面白いですね。

 

●馮道と印刷術(pp.21-23)

☆疑問②:中国では印刷の始まりはどのように考えられていたのか?

 

 この疑問に対する回答として、南宋・葉夢得『石林燕語』と明・陸深『金台紀聞』の一節が引かれています。

 

南宋・葉夢得『石林燕語』巻8

 世上では木版印刷は馮道に始まるといっているが、これは正しくない。ただ国子監における「五経」の出版を、馮道が行なっただけである。柳玼の「訓序」に、彼が蜀にあった時、書肆を見たところ、字書などの類の書物は版木に彫って紙に印刷するのが習いとなっていたとあるから、唐の時にすでにあった。ただおそらくは今の精巧さに及ばなかったのである。

 

★明・陸深『金台紀聞』

後唐明宗の長興三年(九三二)、国子監に命じて「九経」を校定させ、刊行して売り出した。その議は馮道から出た。これが書物の印刷の始まりである。

 

 これらの記述から当時、木版印刷を初めたのは五代の人である馮道(882-954)という言説が広く伝わっていたことが分かります。続けて述べられているように、『旧五代史』などによると、馮道は実際に「九経」の版木を彫ることを発案したとあります。しかし、これより前に仏教経典の印刷が既に始まっていたので、大木氏は、馮道は正しくは「最初に儒教の経典を印刷した人物」であったと言います。

 

〔…〕たしかに「陀羅尼」はかならずしも書物とはいえないし、『金剛般若波羅蜜経』にしても、「九経」に比べれば、小さな書物である。そう考えれば、印刷は昔からあったが、はじめて書物らしい書物を印刷したのは馮道である、というのもわからないわけではない。だが、葉夢得の『石林燕語』にしても、馮道以前の印刷の例として挙げているのは、柳玼「訓序」に見えた、字書などの書物であって、仏教の世界の印刷については、まったく無視しているのである。あるいは中国の知識人たちは、印刷術発明の功を、外来の宗教である仏教に帰することが耐え難かったのではないか。そのまた、あえてそれ以前の歴史を無視し、馮道を印刷術の元祖と称したのではないか。そう思えてならない。

 その馮道という人物は、五代の五つの王朝に宰相として仕えた人物として、後世の評価はかならずしも高くはない。一方で、乱世にあって従来の常識にとらわれない人物であったこともたしかであって、儒教経典である「九経」の印刷は、いまにして思えば何でもないことのようだが、馮道によるその発案は、当時の常識からすればよほど型破りな行動だったのかもしれない。(pp.22-23)

 

 ここに見える、儒教世界に生きる知識人の外来の仏教に対する抵抗・反発という考え方は、ここではあくまで憶測として述べられていますが、次節でキーになる視点です。

 

●唐・宋の印刷需要(pp.23-25)

☆疑問③:唐代には科挙も行なわれ、儒教経典の需要があったはずであるにも拘らず、印刷術発明から馮道まで約200年間、儒教経典が印刷されなかったのはなぜか?

 

★理由

 それは結局のところ、儒教に先んじて経典を印刷し、布教活動を行なっていた仏教への反感、そしてまた、儒教の側にあった、経典印刷への一種の抵抗感のためだったのではないかと思われる。仏教が布教を重んじたのと異なり、儒教経典の学習は、いわば当時の支配階級の特権的な学習教育内容であった。そのため、この時代においては、広く世の中一般に伝わる必要もないし、またそれをあまりに広く伝えることへの抵抗もあったのではないか。そのことは言い換えるならば、儒教経典への需要が、唐代においては、まだ印刷しなくてもやってゆける程度だったことを意味するであろう。やがて五代、宋に至って、それらが印刷されるようになったのは、需要がそれだけ増えたからにほかならない。(pp.23-24)

 

 ここに述べられるように、唐代から五代・宋にかけて、儒教経典の印刷状況は変化しました。そしてこれには社会背景の変化が大きく関わっていると言います。

 

 唐代にはすでに科挙が行なわれていたものの、唐代はまだ六朝以来の門閥貴族時代の名残をとどめており、科挙によらなくても任官できる道が残されていた。唐代の科挙は礼部(文部省)が主催するものであって、合格者に与えられる進士の称号も、かならずしも皇帝が認定するものではなかった。ところが宋代になると、仕進の道は科挙一本になり、みんなが科挙に殺到することになる。科挙の権威も高まり、進士の地位は皇帝が主宰する殿試を通して認められることになる。当然、より多くの人人が経書の勉強をしなければならなくなる。(p.24)

 

 大木氏は例として『文選』を挙げます。『文選』は科挙において重んじられましたが、唐代では印刷された形跡がなく、多くの刊本が出現するのは宋代に入ってからでした。このことからも「唐代における学問は、社会全体から見れば、まだ一部少数者の特権的なことがらだった」(p.25)と述べています。

 

●宋代、印刷本の普及(pp.26-28)

 宋代における印刷本の普及状況を垣間見ることができる資料として、大木氏は北宋の蘇軾「李君山房記」と、元末の宋濂「送東陽馬生序」を引いています。

 

北宋・蘇軾「李君山房記」(『経進東坡文集事略』巻53)

 秦漢以来、著作をする者はどんどん多くなっていった。紙と文字とは日を追って手に入れやすいものになってゆき、書物はますます多くなって、世間にないものはないほどである。それなのに、学者たちがますますいい加減になってゆくのは、いったいどういうことなのだろうか。わたしはある老儒先生が次のようにいわれるのを聞いたことがある。「若かった時には、『史記』『漢書』が読みたいと思っても、なかなか手に入らなかった。幸い見られた時には、どれも手ずから書き写し、日夜声に出して読み、ただ至らないことを恐れるばかりであった。近年では商人たちがどんどん刊行し、諸子百家の書物が毎日万紙も伝わっている。書物は作者にとって、これほど多くかつ簡単なものとなっている。それは文学や学術にとって、昔の人に数倍の利点があるはずである。それなのに若い科挙の士たちはみな、書物を積んだままにして読まず、根も葉もない議論ばかりしている。これはいったいどういうことなのだろうか」。(p.26)

 

★元末・宋濂「送東陽馬生序」(『宋学士文集』巻73)

 わたしは幼少のころから学問好きだったが、家が貧しかったため、書物を取り寄せて読むことはできなかった。いつも蔵書家から借りて、みずから筆写し、期限を定めて返していた。非常に寒く、硯の墨が凍り、指がかじかんでいるような時でも怠けず、写し終わると届けにいった。少しばかりも約束の日を過ぎることがなかったので、人はたいてい書物をわたしに貸してくれた。わたしはお陰で、多くの書物をくまなく読むことができたのである。(p.27)

 

 北宋期には様々な書物が印刷されて以前に比べて入手しやすくなったとはいえ、元末に至っても依然として高価なものであったことが分かります。そのため、宋濂のような貧しい者は、人から借りて自ら書き写すほかありませんでした。

 

 井上進『中国出版文化史 書物世界と知の風景』第十章「特権としての書籍」でも、宋代はたしかに刊本はあらわれたものの、やはり当時の書籍の主流は鈔本(写本)であったと述べている。〔…〕鈔本は手間を惜しまなければ自分自身でどんどん作ることができたが、刊本は結局のところ、誰かが出版したものを、お金を出して買わなければならなかったからである。(pp.27-28)

 

 しかし、ここで注意すべきは、鈔本が主流となっていた宋元期においても依然として仏教関係の書物は印刷され続けていたということです。

 

 ただし宋元の時代に刊本が比較的少なかったろうというのは、「外典」すなわち仏教以外の書物の場合であって、宋代以後の印刷普及時代に入って、もともと先進的であった仏教関連の書物の印刷は、ますます発展することになる。日本にあって、「外典」である宋版の『史記』や『文選』などは国宝に指定されているが、実は「内典」の仏教書については、かなりの数の宋元版が現存しており、国宝、重要文化財に指定されているのは、そのうちほんのわずかにすぎない。数があまりに多いからである。宋元版というと、もっぱら「外典」が問題にされるが、実は「内典」の部分もたくさん存在したのであって、印刷技術が仏教以外の世界に及ぶようになった後も、仏教の世界における印刷は決して衰えを見せたわけではないことを忘れてはなるまい。(p.28)

 

 以上、今回は明代以前の内容について読んできました。次回は明代における出版状況の変化について読み進めていきます。ではまた次回。

 

ぴこ