聚義録

毎月第1・3水曜日更新

金聖嘆「読第五才子書法」を読む(3)

 前回に引き続き金聖嘆「読第五才子書法」を読み進めていきましょう。今回は第12〜21段です。

 

【12】

 三箇「石碣」字、是一部『水滸傳』大段落。

 

〔訳〕三つの「石碣」の字は、『水滸伝』の重大な段落である。

 

 「石碣」とは石碑のことです。金聖嘆本で「石碣」が登場するのは、楔子・第14回・第70回の3箇所です。楔子では洪信が掘り起こした伏魔殿の石碑を、第14回では呉用が三阮を仲間に引き入れた村の名「石碣村」を、第70回では108人の好漢の名が刻み込まれている石碑を指しています。楔子は物語の始まり、第14回は好漢たちの集結のきっかけ、第70回は物語の結末という点で重要な場面だと見なされているのです。

 楔子で石碑が登場した際に、金聖嘆は「一部大書七十回、以石碣起、以石碣止、奇絶(この大書の全70回は、『石碣』に始まり、『石碣』に終わる、素晴らしい)」という夾批を附しています。金聖嘆が物語の構造にかなり敏感であることは、前回も触れましたし、今後の段落の内容からも明らかです。

 またここに「碣字俗本訛作碑字(『碣』の字は俗本では『碑』の字に誤る)」という評語もあります。「俗本」つまり百二十回本の第1・15・71回のテキストを確認すると、第15・71回では「石碣」となっていますが、第1回だけは「石碑」となっています。この「石碑→石碣」の改変は、金聖嘆の構造に対する意識が文字一字のレベルに至るほど緻密だということを表しています。ここでは三つの場面の記載を「石碣」に統一することで、これらの場面が呼応していることを強調しようとしているのです。

 

 

【13】

『水滸傳』不說鬼神怪異之事、是他氣力過人處。『西遊記』每到弄不來時、便是南海觀音救了。

 

〔訳〕『水滸伝』が鬼神怪異の事柄を述べないのは、彼の気力が人より勝っているところである。『西遊記』ではどうしようもなくなった時は毎回、南海観音が救い出してしまうのである。

 

 『水滸伝』では(公孫勝や羅真人らの法術は抜きにして)基本的には鬼神怪異の事柄を扱うことはありません。一方で『西遊記』では、最終的には南海観音に頼ってばかりいる、というのが彼の主張です。『西遊記』の非現実性・荒唐無稽さへの批判はここにも表れています(【6】参照)。

 

 

【14】

 『水滸傳』並無之乎者也等字、一樣人、便還他一樣說話、眞是絕奇本事。

 

〔訳〕『水滸伝』は全体を通して堅苦しい言い回しは無く、同じ人には同じように話している。これはまさに作者の素晴らしい腕前である。

 

 「之乎者也」というのは堅苦しい言い回しといった意味です。作中人物ひとりひとりにその人物に相応しい話し方をさせていることを金聖嘆は絶賛しています。話す態度や言葉遣いなど、その人らしい話し方を描き出すことができれば、人物たちはより生き生きと動き出し、自然と堅苦しい文体ではなくなる、といったことをここでは言っているのでしょう。

 

 

【15】

『水滸傳』一箇人出來、分明便是一篇列傳。至於中間事蹟、又逐段自成文字。亦有兩三卷成一篇者、亦有五六句成一篇者。

 

〔訳〕『水滸伝』ではある人が登場すれば、明らかに一篇の列伝となる。列伝の中の事柄においても、話が進むごとに自然と文章ができていく。また二、三巻で一篇の列伝をなすものもあれば、五、六句で一篇の列伝をなすものもある。

 

 『水滸伝』がよく『史記』と比較されることは以前も述べました。金聖嘆はここでさらに物語中のひとりひとりの小さなストーリーを「列伝」と表現しています。『水滸伝』は豪傑たちの「列伝」が繋がり合って出来上がっているというわけです。

 

 

【16】

別一部書、看過一遍即休。獨有『水滸傳』、只是看不厭。無非爲把一百八箇人性格、都寫出來。

 

〔訳〕他の書物では、一回読み終わると(飽きて)すぐに読む手が止まってしまう。ただ『水滸伝』だけは、読み飽きることはないのである。(これは)彼が百八人の性格を、全て描き出しているからなのである。

 

【17】

『水滸傳』寫一百八箇人性格、眞是一百八樣。若別一部書、任他寫一千箇人、也是一樣、便只寫得兩箇人、也只是一樣。

 

〔訳〕『水滸伝』の百八人の性格を描写する様は、まことに百八様である。他の書物では、たとえ千人を描いたとしても、ただ一様であって、たとえたった二人を描いたとしても、またただ一様になってしまうのである。

 

 【16】と【17】では、人物の性格描写について述べています。性格描写というのは、金聖嘆が特に力を尽くしたことのひとつです。ここでは「まことに百八様である」と述べていますが、彼のこの意識は好漢だけに向けられたものではありません。高俅のような奸臣は奸臣らしく、潘金蓮のような淫婦は淫婦らしく、王婆のような遣り手婆は遣り手婆らしくといったように、作中に登場するあらゆる人物に向けられています。

 『水滸伝』における性格の描き分けに対する強い意識は、金聖嘆に始まったものではありません。例えば容与堂本(百回本)第三回の李卓吾総評には、魯智深李逵、武松などは皆「急」な性格であるけれど、それぞれが違ったように描かれている、といった主旨の記述があり*1、その意識は金聖嘆に大いに影響を与えました。

 

 

【18】

『水滸傳』章有章法、句有句法、字有字法、人家子弟稍識字、便當教令反覆細看、看得『水滸傳』出時、他書便如破竹。

 

〔訳〕『水滸伝』では章には章法があり、句には句法があり、字には字法がある。人の子弟は少しでも字を知っているならば、繰り返し精読させるべきである。そうすれば『水滸伝』を読み通した後には、彼は破竹の勢いで文章を書くことができるだろう。

 

【19】

江州城劫法塲一篇、奇絕了、後面却又有大名府劫法塲一篇、一發奇絕。潘金蓮偷漢一篇、奇絕了、後面却又有潘巧雲偷漢一篇、一發奇絕。景陽岡打虎一篇、奇絕了、後面却又有沂水縣殺虎一篇、一發奇絕。眞正其才如海。

 

〔訳〕江州城での刑場荒らしの一篇は素晴らしく、その後にある大名府での刑場荒らしの一篇も一層素晴らしい。潘金蓮の姦通の一篇は素晴らしく、その後にある潘巧雲の姦通の一篇も一層素晴らしい。景陽岡で虎を打つ一篇は素晴らしく、その後にある沂水県で虎を殺す一篇も一層素晴らしい。その才能はまさに海のように広大で深い。

 

【20】

劫法塲、偷漢、打虎、都是極難題目、直是沒有下筆處、他篇不怕、定要寫出兩篇。

 

〔訳〕刑場荒らし、姦通、虎を打つ、というのはいずれも極めて難しい主題であり、まさに書きようがないものであるが、彼(施耐庵)は恐れることなく、必ず二篇を書き上げた。

 

 【18】では、作品創作における作文法について述べています。「章法」とは全体や個々の物語内の段落レベルの技法、「句法」とは文レベルの技法、「字法」とは文字レベルの技法のことを指します。

 【19】・【20】で述べられているのは、「章法」の一例です。刑場荒らし・姦通・虎を打つという3種類のテーマについてのストーリーが、『水滸伝』ではそれぞれ二度描かれています。刑場荒らしは、江州城で宋江・戴宗を救い出した場面と、大名府で盧俊義・石秀を救い出した場面。姦通は、潘金蓮西門慶、潘巧雲と裴如海の二場面。打虎は、景陽岡で武松が虎を打ち殺した場面と、沂水県で李逵が母を食べた虎を打ち殺した場面。金聖嘆が言う「章法」には、これらのような類似したストーリーが繰り返されているものも含まれ、その素晴らしさを称賛します(実際には金聖嘆自身が手を加え、「これは章法だ!」としたものもありますが・・・)。先の【12】の「石碣」の呼応も、「章法」の一種です。「章法」には、金聖嘆の作品構成に対する強い眼差しが大いに反映されていると言えるでしょう。

 

【21】

『宣和遺事』具載三十六人姓名、可見三十六人是實有。只是七十回中許多事蹟、須知都是作書人憑空造謊出來。如今却因讀此七十回、反把三十六箇人物都認得了。任憑提起一箇、都似舊時熟識、文字有氣力如此。

 

〔訳〕『大宋宣和遺事』は詳細に三十六人の姓名を記載しているので、三十六人が実在したことがわかる。しかし、七十回中の多くの事跡は、全て根拠が無く捏造したものであることをわかっておくべきである。しかし今はこの七十回を読むことによって、三十六人の人物を皆認識することができる。たとえそのうちの一人だけを取り出したとしても、それらは皆まるで古くからよく知った馴染みのようである。文章にはこのように気力が備わっているのである。 

 

 【21】では『水滸伝』中のストーリーの多くはすべて作者によって創作されたものだと強調します。七十回本を読んだ読者は、登場人物のひとりひとりがどんな人物で何をしたのか、まるで昔馴染みのように把握しており、それは『水滸伝』の文章には「気力」が備わっているからだと金聖嘆は言います。「『気力』が備わっている」というのは少々抽象的な表現ですが、要するに作者の才能が発揮されているといったことでしょう。史実に沿ったストーリーであれば、読者には理解を助けるような予備知識もあるでしょう。しかしながら、ほぼ完全に創作されたストーリーにも拘らず、読者が作中人物の事跡や性格をしっかりと把握できるのは、作品構成や表現力が非常に卓越し、成功しているからにほかならず、それはひとえに作者の優れた才能によるものなのです。

 

 さて、今回はここまで。今後も少しずつ読んでいきましょう。

 

ぴこ

 

*1:容与堂本の評語は李卓吾自身の手によるものではなく、李卓吾に偽託して書かれたものと考えられていますので注意が必要です。