聚義録

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初学者向け『水滸伝』関連図書2:佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(2)

 前回の続きです。今回も佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(中公新書、1992)の第五章第二節「喜劇的悲劇の主人公黒矮三郎宋江」(pp.80-83)を読んでいきましょう。

 佐竹氏は高島俊男氏・宮崎市定氏の述べるような宋江像に疑問を抱き、宋江像の原型を知るため、まずは宋江の閻婆惜殺しのエピソードについて検証を進めます。

 冒頭は水滸物語を題材とした雑劇「水滸戯」に見られる閻婆惜殺しに触れています。

 水滸戯の世界では、活躍するのは個々の豪傑であり、宋江にはことさらに親分や指揮官としての能力を発揮する必要はない。そこでは、宋江がちびで色黒で太っていてもとりわけて不都合はないであろう。ただし、この水滸戯で注目すべきことは、すでにここで宋江がもと鄆州鄆城県の胥吏であり、娼妓閻婆惜を殺したため逮捕され、江州の労役営に送られることになったという筋書きができていることである。この娼妓閻婆惜殺しの話は、現在の水滸伝にものこされており、その話の内容と語り口からして相当にふるい来歴をもっているものと感じられる。(p.80) 

 元代に入ると水滸戯が作られるようになりました。現存する元代雑劇は全6種あり(うち2種は明初のものとも考えられています)、明初までに成立したもので題名だけが残っているものを含めると20種以上あります。そして明代中期から明末、更に清代にも水滸戯は作られました。更に明代には『水滸伝』を題材とした伝奇も盛んに作られました。

 水滸戯については高島俊男水滸伝の世界』(筑摩文庫、2001)、小松謙『中國白話文學研究―演劇と小説の關わりから―』(汲古書院、2016)などでも詳しく論じられていますので、興味のある方はそちらもご覧ください。

 また、水滸戯の原文については傅惜華等編『水滸戯曲集』(全2集、上海古籍出版社、1985)が有用です。第一集は雑劇、第二集は伝奇が収録されています。

 冒頭にも書かれているように、水滸戯で中心となる人物は李逵魯智深といった豪傑たちであって、一部を除いて宋江はあくまで端役として登場します。水滸戯の定番の流れは、豪傑たちが梁山泊から下山し、勧善懲悪なりの展開を経て、再び梁山泊に戻ってくるというものです。宋江はその豪傑を物語の冒頭で送り出し、結末で迎え入れる役割を与えられる場合が多いです。『水滸戯曲集 第一集』に収録される水滸戯のうち、宋江が登場する作品及び登場する「折」(幕)を調べると次のようになります。「楔子」は主に冒頭に配置され、導入部の役割を果たしますが、折と折の間に置かれる場合もあります。

 

 元「黒旋風双献功」(全四折)…第一、四折

 元「同楽院燕青博魚」(全四折)…楔子、第四折

 元「梁山泊黒旋風負荊」(全四折)…第一、二、三、四折

 元「大婦小妻還牢末」(全四折)…楔子、第四折

 元「争報恩三虎下山」(全四折)…楔子、第四折

 元「魯智深喜賞黄花峪」(全四折)…第一、二、四折

 明「黒旋風仗義疎財」(全四折)…第一、二、四折

 明「豹子和尚自還俗」(折を持たない) …冒頭、結末

 明「梁山五虎大劫牢」(全五折)…第一、三、五折

 明「梁山七虎鬧銅台」(全五折)…楔子、第一、二、三、五折

 明「王矮虎大鬧東平府」(全四折)…第一、三、四折

 明「宋公明排九宮八卦陣」(全四折)…第一、二、三、楔子、四折

 明「宋公明鬧元宵」(全九折)…第三、八、九折

 

 ご覧の通り、多くの水滸戯で冒頭及び結末に宋江が登場します。特に元代の作品ではその傾向が強いことが分かります。

 

 雑劇で既に閻婆惜殺しの話が出来上がっていたことについて、佐竹氏は具体的な作品名を挙げていませんが、これは例えば次のような記載から明らかです。

宋江同呉學究領小僂儸上〕〔宋江云〕幼小爲司吏、結識英雄輩。某、姓宋名江字公明、綽名順天呼保義。幼年曾爲鄆州鄆城縣把筆司吏、因帶酒殺了閻婆惜、脚踢翻蠟燭臺、沿燒了官房、致傷了人命、被官軍捕盜、捉拿的某緊、我自首到官、脊杖六十、迭配江州牢城去。 (元・高文秀「黒旋風双献功」第一折)

 

 話は『水滸伝』における閻婆惜殺しの話題に移ります。ここで佐竹氏は閻婆惜殺しに関わる宋江の妾・閻婆惜とその母・閻婆、そして閻婆惜の浮気相手の張文遠の名前に注目しています。まずは張文遠についてです。

現在の水滸伝百回本では、この話は第二十一回の「虔婆酔って唐牛児を打ち、宋江怒って閻婆惜を殺す」にでてくる。独身の宋江が流れ者の母娘の面倒をみて、娘の閻婆惜を妾にするが、浮気者の閻婆惜から話は始まる。興味があるのはこの張文遠という色男とあつあつになってしまって宋江を袖にするというところから話は始まる。興味があるのはこの張文遠が、きわめつきの美男子で粋な男に描かれているうえ、宋江が輩行で宋三あるいは宋三郎と呼ばれるのと同じくかれも張三あるいは張三郎と呼ばれていることである。母親すなわち閻婆は宋江に見限られては生活が立たぬと心配して、気の進まぬ宋江をむりやり妾宅につれてくる。閻婆が階下から「お前の大好きな三郎さんを連れてきたよ」と声を掛けると、張三郎がきたとおもった閻婆惜は跳ぶように階段をおりてくるが、三郎ちがいと知ってまたぷいっと二階にあがってしまう。これはおそらく宋江が色黒で黒三郎と呼ばれていたのにたいして張文遠のほうは色白の美男子として白三郎と呼ばれていたのであろうし、宋江がちびであるのに対して張文遠のほうは背が高かったのではないだろうか。すれっからしというよりはむしろ粋できかぬ気の女が不粋な醜男をやりこめるという筋書きが、ちびで太った黒三郎と背が高くて風流な白三郎の組合せで強調されていたのであろう。(pp.80-81)

 佐竹氏が指摘している通り、作者は意図的に張文遠を宋江とは真逆の人物として描こうとしたことが分かります。張文遠と比べると宋江の醜男さは一層際立ちます。

 

 続いて閻婆惜の名前について『東京夢華録』を用いて考察しています。

ちなみに閻婆惜という名は、本来は閻という婆すなわち水商売の女将が店の娘の器量よしを惜しむという意味であろうが、すでに北宋末の都開封の繁栄を描いた『東京夢華録』(入矢義高、梅原郁訳、岩波書店)に、小唱すなわち「こうた」の名手の第一位が李師師、第二位が徐婆惜とみえている。この李師師が時の徽宗皇帝のお忍びの相手の李師師であったか否かはわからないが、徐婆惜の名前の付け方が閻婆惜と同じであったことはあきらかである。また、閻婆惜の母親が虔婆(やりてばば)といわれていることもおもしろい。やり手婆とその浮気な娘に翻弄される不粋なちび黒三郎というわけである。閻(えん)と虔(けん)は音がよく似ており、あるいは閻婆惜はもと虔婆惜からきているのかもしれないのである。(p.81)

 後の展開で重要な役割を担う李師師の名前の次に「徐婆惜」とあることからも、これが閻婆惜と関係している可能性は十分あると思います。

 宋江の女性に対する淡白さについては前回触れた通りです。女性の扱いに疎い宋江と、やり手婆の娘である閻婆惜とでは、閻婆惜の方が一枚も二枚も上手でした。佐竹氏が述べるように、この場面における宋江は閻婆と閻婆惜に振り回される人物として描かれています。

 (引用者注:宋江と閻婆惜とでは)これはどうみても宋江に分がわるい。水滸伝の作者は「原来宋江は是れ個(ひとり)の好漢にして只鎗と棒を使うを愛し、女色の上においては十分には要緊(だいじ)ならず」とか「宋公明は是れ個の勇烈の大丈夫にして、女色の為の手段は却って会せず(できない)」とか、さかんに宋江のために太鼓をたたいているが、実際の宋江は、金で閻婆惜の身を買いながら心まで買えない、ただ思い切りの悪いあわれなぐず男にすぎない。水滸伝ではこのあと梁山泊とのつながりの証拠を握られた宋江が閻婆惜を殺すことになるが、『大宋宣和遺事』のばあいには、宋江が情人といちゃついているなじみの閻婆惜に腹を立ててふたりを殺すことになっている。おそらくは、このほうが本来の筋書きであろう。(p.82)

  『水滸伝』と『大宋宣和遺事』の閻婆惜殺しの違いについて述べています。では実際に『大宋宣和遺事』の閻婆惜殺しに関する記述を見てみましょう。

 ある日晁蓋宋江が救命の恩義を思い、ひそかに劉唐を使として、謝礼の意をこめて、一対の金釵を宋江に贈った。宋江はそれを受けて、不覚にも馴染の娼婦閻婆惜に預けたため、機密が漏れて、事のいわれは閻婆惜の知る所となった。・・・(略)・・・宋江は幸い父の病気も全快したので、鄆城県の公署に帰ろうとして、馴染の閻婆惜を尋ねると、女の家には間夫の呉偉という男が来ていた。宋江は二人が睦まじく倚添っているのを見て、怒り心頭に発し、刀をとってその場に二人を殺し、壁に四句の詩を書きしるした。(吉川幸次郎・入矢義高・神谷衡平訳『古典文学全集第7巻 京本通俗小説・雨窓欹枕集・清平山堂話本・大宋宣和遺事』、平凡社、1958、p.267)

 怒りに任せて衝動的に閻婆惜を殺害したという点では『水滸伝』と『大宋宣和遺事』の宋江は共通していますが、そこに至る過程は異なります。『大宋宣和遺事』の宋江は自ら積極的に閻婆惜のもとを訪れている点、嫉妬が殺害の理由である点において、『水滸伝』で描かれるような女性に淡白な宋江像とは大きな距離があります。

 

 以上のことから、佐竹氏は宋江像の原型を次のように推定しています。

 姦通の物語としては、水滸伝にはこのほか、武松の潘金蓮殺しや楊雄と石秀の潘巧雲殺しの話があり、ともに緻密な心理描写によって異彩を放っている。武松の物語が、南宋以来の講釈師のレパートリーにあったことからして、それは長いあいだかかって洗練された語り物であると考えられるし、後者は林冲故事と相似たメリハリをもつ創作故事である。宋江と閻婆惜の話は元曲の宋江の自己紹介からしても、宋江が閻婆惜を殺したはずみに燭台を蹴りとばして役所が焼けて怪我人がでた、と話がおおげさで活劇的、すなわち戯曲的であり、水滸伝の閻婆惜故事は戯曲の影響を受けつつあった講談に由来すると思われるのである

 歴史上の人物としての宋江はどうであれ、水滸伝の閻婆惜故事にあらわれる宋江こそが水滸伝宋江の直接の原型であり、かつその人物像がこの喜劇的悲劇的活劇として人口に膾炙していたとすると、明初になって梁山泊の世界にダイナミックな動きが始まり、それがやがて水滸伝の世界として構成されてくるさいに、この原宋江としての宋江像が、新しく形成されつつあった宋江像を規定したであろう

 閻婆惜故事から見ると、この原宋江は嫉妬深く短慮、律儀ではあるが残忍ということになろうか。(p.83)

  ここに見える「宋江が閻婆惜を殺したはずみに〜」のエピソードは、まさしく先に引いた高文秀「黒旋風双献功」の一節のことを指しています。

 佐竹氏は宋江像の原型を「嫉妬深く短慮、律儀ではあるが残忍」と推定し、この原宋江像は現宋江像の形成過程で大いに影響を与えたとしています。佐竹氏の見解に基づいて考えれば、『水滸伝』の作者は閻婆惜殺しのエピソードに手を加え、原宋江像に見られた「嫉妬深さ」の要素を意図的に取り除きはしましたが、全体としては原宋江像を継承したと言えるのではないでしょうか。

 逆に、なぜ『水滸伝』の作者は宋江の「嫉妬深さ」を継承しなかったのかと言えば、そこには女性に対して潔癖な好漢像というものが大いに関係しているのでしょう。

 

 さて今回はここまで。次回は次節「宋江の綽名、呼保義の意味」を読み進めていくことといたしましょう。

 

ぴこ