聚義録

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論文紹介2:荒木達雄「『水滸伝』に見える「義」の解釈」(1)

 『水滸伝』には様々な版本が存在しています。それらの中には作品タイトルに「忠義」を冠したものがいくつもありますが、『水滸伝』における「忠」や「義」あるいは「忠義」とはそもそもどのようなことを指すのでしょうか。今回は『水滸伝』に見られる「義」に焦点を当てた荒木達雄「『水滸伝』に見える「義」の解釈」(『東京大学中国語中国文学研究室紀要』第13号、pp.22-48、2010-11)の内容をご紹介します。尚、一部原文を省略し、和訳のみ示している箇所がありますが、その具体的な出典や原文は本論文に記載がありますので適宜そちらをご参照ください。

 

○本論文の目次

1.問題の所在

2.「義」の表れる場面とその解釈

3.朱子学の「義」

4.陽明学の「義」

5.李卓吾の思考法 (←今回はここまで)

6.「義」の使用上の制限

7.明代作品中にみえる「義」

8.使用対象の広がり

9.明代日常規範意識としての「義」

 

○本論文の目的

 『水滸伝』において「義」という語が重要な位置を占めていることは周知の事実と言えよう。〔…〕容與堂刻百回本『水滸伝』には、合計四百二十六の「義」の使用例が見られる。数が多いのみならず、様々な状況下で自在に用いられるため、この語を把握することは容易ではなく、従来の研究では多義語であるとしたり、『水滸伝』に特徴的な「江湖の義」があるとして儒家の「義」とは切りはなして分析したりするむきも多かった。本稿は、複雑に捉えられてきた『水滸伝』の「義」をあらためて検討し、その位置づけの再考を試みるものである。〔…〕本稿ではまず『水滸伝』における「義」の統一的イメージを描き出し、同時代の他の文献に見える「義」と対照しつつ、その性質の定義づけを試み、それが特殊とみなされがちな要因にも言及したい。(pp.22-23)

 

○本論

2.「義」の表れる場面とその解釈

 『水滸伝』の「義」に統一的解釈がなされなかった要因

   =「義」に基づく言動のもたらす結果が多種多様で共通性を見出しがたい

〔例1〕都頭既然如此仗義、小人便救醒了(都頭がこれほど義を重んじられるなら、わたくしは二人を目覚めさせましょう:第28回)

 武松は護送される途中、張青から二人の護送役人(張青・孫二娘によって痺れ薬を飲まされた)の殺害を勧められた。しかし、武松は二人はここまできちんと扱ってくれたとしてこれを断った。それに対して張青は〔例1〕のセリフを言った。

   →逃げる機会を失ってまで、役人の命を救い、法に服す

 

〔例2〕那時我與宋江在他庄上相會、多有相擾。今日俺們可以義氣為重、聚集三山人馬、攻打青州(当時おれと宋江は彼らのやしきで出会い、いろいろと面倒をかけた。いまおれたちは義気を重んじ、三山の人馬を集めて青州を攻めるべきだろう:第57回)

 〔例2〕は、武松を屋敷に住まわせてくれた孔明と孔賓が投獄されたことを聞いた武松のセリフ。 

   →官に背き、都市に攻め込む

 (引用者注:例1と例2とでは)確かに結果はよほど異なるが、危機に陥った恩人を助けようという動機は一致していることがわかる。その動機に従うと、前者では「自由をあきらめる」、後者では「官軍と戦う」という試練がたちはだかる。「造反」自体が目的なのではなく、恩人を助ける際の障碍がたまたま権力であったと考え、二つの「義」の関連性を重視する方が、この語の使用実感に近いのではないだろうか。

 「義」はそもそも徳目、つまり人の思考を規定するものである。このことからも、「結果主義」的観点ではなく、〔…〕「動機主義」的解釈が妥当であろう。(p.26)

 

〔例3〕宋江就説「輳隊上梁山泊去投奔晁蓋聚義。」宋江は言った。「軍勢を集めて梁山泊へ上り、晁蓋のもとに見を投じて聚義しよう。」:第35回)

   →仲間になること

 

〔例4〕李逵見他兩個(=欧鵬・陶宗旺)赶來、恐怕爭功壞了義氣、就手把趙能一斧、砍做兩半、連胸膛都砍開了。李逵は彼ら二人が駆け寄ってくるのを見て、功績を争って義を壊すのではと思うや趙能を斧でまっぷたつに、胸まで切りさいた:第42回)

   →仲間割れ

 

〔例5〕「小乙(=燕青)本待去辭宋先鋒、他是箇義重的人、必不肯放。只此辭別主公。」(私は宋先鋒にお別れを申しあげてからと思っていましたが、あのかたは義の重いかた、行かせてはくれますまい。いまご主人にだけお別れを申しあげます:第99回)

   →「仲間であるからには結束を守らなければならない」という考え

 

〔例6〕一失雌雄、死而不配、此為(ひとたびつれあいを失うと、死んでも再び得ようとはしない、これが義である:第90回)

   →「絶対にこの関係を断ってはならない」という意識

 

〔例7〕一丈青(=扈三娘)宋江義氣深重、推却不得〔…〕晁蓋等衆人皆喜、都稱賀宋公明真乃有德有義之士(一丈青は宋江の義気が深いのを見て断りきれず〔…〕晁蓋たちみなはとても喜び、宋公明は本当に徳と義のある人だとたたえた:第51回)

   →「結婚相手を見つけてやる」という王英との約束を守ろうとする宋江の意志の強さ

 

〔例8〕「若是衆位肯姑待李俊、容待收伏方臘之後、李俊引了兩箇兄弟徑來相投、萬望帶挈。是必賢弟們先準備下這條門路。若負今日之言、天實厭之、非為男子也。」那四箇道「我等准備下船隻、專望哥哥到來、切不可負約。」李俊、費保結義飲酒、都約定了、誓不負盟。(「もしおのおのがたがしばしお待ちくださるのであれば、方臘を屈服させたあと、弟二人を連れて身を投じますので、どうかお連れください、賢弟たちは必ずや先にその道の準備をしておいてください。もしこのことばに背けば天も私を見放す。男ではない。」四人は言った。「我らは船を整え、あにきのおいでを待っています、ゆめゆめ約束を違えなさるな。」李俊と費保は義を結んで酒を飲み、誓って盟に背かぬことを約した。:第94回)

   →直前で既に義を結んで仲間になっており、ここでは「約束を守ることを誓う」の意

 

〔例9〕只見階下魯智深、使手帕包着頭、拿着鉄禪杖、徑奔來要打張清。宋江隔住、連聲喝住「怎肯教你下手。」張清見宋江如此義氣、叩頭下拜受降。(ふと見ると階段の下では魯智深が手ぬぐいで頭をくるんで鉄の禅杖を手に、まっすぐに駆け寄って張清に打ちかかろうとしてる。宋江はつづけざまに叱りつけた。「おまえに手ハは出させぬぞ。」張清は宋江のこの義気を見ると、ひれふして宋江を拝し、投降した。:第70回)

   →「不利な立場にあるものを傷つけてはならない」という意思

 

〔例10〕 陳府尹哀憐武松是個有義的烈漢、如常差人看覷他。(陳府尹は武松が義のある豪傑であると同情し、しょっちゅう人をやって様子を見させた。:第27回)

   →「兄の仇を討たねばならない」という道義的理由に基づく殺人

 「義」は身近な人間関係の秩序を維持・調整しようとする心理である。その際の判断基準は「当然このように考えなければならない」という道理であり、それにしたがってその時々の立場に応じてなすべきことを判断し、いかなる障碍があろうともそれを貫こうとする。〔…〕利益や欲望にながされてこの判断に従わなければ「負義」「私」などと非難される。

 特に注目したいのが「身近な人間関係」、「道理」の二点である。

 前者については、秩序を調整しようとする人間関係の範囲は往々にして恣意的に決められ、時と場合によっても異なることがあげられる。このとき目的は範囲内の調整であり、そのために範囲外にどのような影響を与えようともあまり関心は払われない。〔…〕

 後者に関して注目すべきは、「誰が決めた道理か」である。他人が決めた基準や既存の規則ではなく、当事者自身の基準により判断するのである。〔…〕当人が道理にもとづいて人間関係を処理しようとしている、少なくともそのような建前で行動しようとしていると認められれば、結果がどうあれ「義」と称されるのである。(p.29)

 

●3.朱子学の「義」

▷『四書集注』:「宜」に通じ、「人としてなすべきこと/適切な行為/秩序を保つもの」を意味する   (ex.)年長者を敬う、欲望を抑える、利益に流されない

 

▷陳淳『北渓字義』

・「義は、心について言えば、心でよく考え決断することである。宜は決断の後に表れる字である。決断が理にかなっていれば、宜しきを得る。〔…〕たとえばある人が一緒に出かけようと誘いに来たら、出るべきか出ざるべきかを判断しなければならない。」(巻上「仁義禮智心」)

・「義について言えば、あらゆることを考えて決断し、それぞれが宜を得るのもまたすべてこの天理が広がったものである。」(巻上「仁義禮智心」)

 

 総じて、「義」=「世の中の秩序を保つために人がなさねばならぬこと」

 

朱子学は個人の道徳的修養を述べているだけにも見えかねないが、その理念は「道徳イコール政治」であり、自己の道徳修養によって秩序を安寧にする「広義の政治学」なのである。〔…〕秩序を保つべき範囲は第一に国家であり、そのためになすべきことが、現在の人間関係を乱さないことなのである。〔…〕小規模単位の秩序を保つことは上位の秩序を保つために必要なのであり、個人修養の最終目標が平天下である以上、下位の秩序だけが治まっていても意味はないのである。この原則から「義」を見れば、ひとたび結んだ関係は裏切らない、約束は守りぬくなども、それが全体の秩序に貢献するからこそ「なすべき」なのである。個人が道徳的に判断したことでも、より重要な秩序である体制を乱す可能性があれば「義」とされない。この観点では1、2の両例は「義」と「不義」とにわかれる。このように、なすべきことを国家の秩序につながるか否かで判断するという基準はゆるがず個人では左右できない状態が、官学としての朱子学的「義」と言えよう。(p.31)

 

●4.陽明学の「義」

▷『伝習録

・「君子の学は生涯ただ義を集めるの一事のみである。義とは宜である。心が宜を得ることを義という。良知を致すことができるとは、心が宜を得ることである。故に義を集めることもまた良知を致すことにほかならない。君子はあらゆる変化に対応し、なすべきならばなし、止まるべきならば止まり、生くべきならば生き、死すべきならば死す。」(中巻「答歐陽崇一」)

・「義とはすなわち良知が、良知が要点であるとわかると執着がなくなる。たとえば人から贈りものを受けるとき、今日は受けるべきであり、別の日には受けるべきではないということもある。今日は受けるべきでなく、ほかの日に受けるべきだということもある。もし今日受けるべきであったことに執着してすべて受けることにしたり、今日受けるべきでなかったことに執着してすべて受けないことにしたりするのが適や莫であり、良知の本体ではない、義ということができようか」(下巻)

  →「義」の根本は朱子学や『水滸伝』と異なるものではない

  →「義」は「良知」そのもの

「良知は意図や計慮によらず自然にほとばしりでる心の働きを意味する……良知さえ十全であれば、その良知からやむにやまれず発露された行為はすべて妥当となる」のであり、「諸行為の妥当性は結果によって判断されるのではなく動機の次元で判断される」という点で『水滸伝』の「義」と非常に似通っている。しかし陽明学は決して行為の結果はどうであってもかまわないと考えるものではない。〔…〕陽明学はそもそも体制秩序の安定を目標とし、国家の教学になることをも視野に入れたうえで、朱子学の缺陥を改めようとしたものである。そのために経書に埋没するのではなく、人間が本来具有する天理を発揮するほうが為政者の心がけにつながる、と説いているのであり、朱子学と目標を同じくしつつ、そこに至る道すじを異にしているだけなのである。

 水滸伝』で各自が下した道徳判断を「義」と表現する様子は陽明学に通じる。陽明学が通俗小説の発展に影響を与えたこと、通俗小説に陽明学好みの人物が多数見られることなどはこれまでにも指摘がある。『水滸伝』が刊行され、読まれた背景には陽明学の流行という時代の風潮があり、「義」の解釈もその風潮に乗ったものであったとは言えよう。しかし『水滸伝』中の「義」には、本来の陽明学が望まない方向へ「義」を使用し、陽明学の危うさを現出させた面もあったと言えるのではなかろうか。(pp.32-33)

 

●5.李卓吾の思考法

 実際その(=李卓吾の)思想で過激なのは体制教学の形骸化への批判であり、「夫以率性之真、推而擴之、與天下為公、乃謂之道(自然な本性を押し広げていけば天下のための「公」となる、これを「道」と言う)」と言うように、やはり儒学にもとづいた国家の安定を目指しているのである。決して自分勝手な行動を推奨しているのではなく、規則に縛られず各自が本性に従うほうが天下は乱れないという理想を前提とした考え方である。『水滸伝』を肯定したのは、形式にとらわれずに人間の本性を描いているからで、そこにある「義」を全面肯定したわけではない。李卓吾の「義」の考え方は、『續藏書』「孝義名臣」、『初潭集』巻十九「篤義」に見える。〔…〕たとえば、曹操孔融を誅殺した際、日頃親しかった者もみな関わろうとしなくなったが、脂習のみがその死体にすがって哭した、という一条がある。

 しかし他書と比べると、その利用の仕方は少し異なるようである。(p.34)

 

〈他書の類話〉

▷嘉靖本『三国志通俗演義

修曰「汝生逼他命、亡而不哭非義也。畏死忘義、何以立世乎。吾受袁氏厚恩、若得收葬譚屍於殘土、然後全家受戮、瞑目無恨。」操曰「河北義士何如此之多矣。」(王修は言った。「貴様はあのかたを死に追いやった。死して哭さないのは義にもとる。死を恐れて義を忘れては、この世に身をおいていられようか。私は袁氏の大恩を受けているのだから、袁譚の遺骸を葬ることができるならその後一族皆殺しにされようと恨むことはない。」曹操は言った。「河北の義士はこんなにも多いのか。」)

 → 明代の類書『天中記』「義烈」がこの故事を「義士」と題していること、この類話が他にもあることから、当時、権力に逆らってでもかつての主君や、昔からの友人との関係を守り抜こうとする人物の逸話が広く知られ、それを「義」と感じる人が多かったと言える。

 

 ここで注目すべきは、曹操が「義」と感じた、と書かれていることである(原文下線部参照)。王修の思考は、曹操を中心とする権力秩序に反するものであり、その体制秩序には貢献しないものであるにもかかわらず、曹操自身に「義」と称させているのである。

 李卓吾はこの話柄を採用したものの、曹操にその行為を「義」と評価させてはいない。さらに「篤義」末尾に「是故士為知己者死、而況乎以國士遇我也(だから士は己を知る者のために死ぬと言うのだ。ましてや国士として扱われたならば、必ずや国家のために死ぬであろう)」という言葉を含む総評を加えている。この総評で李卓吾は、「義はそもそも心のなかに生じる(義固生于心也)」という陽明学の原則を強調し、「義を好もう」とするのは作為的であるから「義」ではないと述べている。〔…〕三国志通俗演義』や『天中記』と李卓吾では同一類型の利用態度が異なるのである。前二者は、ここに描かれた個別の行為だけで十分「義」であると見なす。李卓吾は心がけをほめている。国家に向ければ立派な「義」になるのに、というような言いようであり、それは同時に陽明学や自身の学説を誤解されないようにという心の表れなのであろう。(pp.35-36)

 

 さて、今回はここまで。本論文は非常に内容が濃密で、今回の記事だけでは全てを解説することができませんでした。次回に続きます。

 

ぴこ