聚義録

毎月第1・3水曜日更新

大木康『中国明末のメディア革命』を読む(2)

 前回に引き続き、大木康『中国明末のメディア革命』(刀水書房、2009)の第1章「中国書籍史における明末」を読んでいきます。今回は明代の話に入ります。

 

●明代、嘉靖・万暦期の大変化(pp.28-31)

 大木氏は、漢籍の総合目録である楊縄信『中国版刻綜録』を用いて、宋から明末までの刊行出版状況の大まかな傾向を調査しています。

 

 これを見ると、宋から明末までの刊行点数三〇九四点のうち、実に六五%を占める二〇一九点が、嘉靖・万暦から崇禎に至る明末の約一〇〇年の間に刊行されていることが確認できる。〔…〕もし宋代以来、出版量がほぼ一定であったと仮定した場合、古いものほど少なくなり、新しいものほど多くが残るであろうから、書籍の現存点数は、〔…〕均斉のとれたピラミッド状になるであろう。ところが実際には、宋、元そして明初、明中期までのものが極端に少なく、嘉靖・万暦以後のものが極端に多い〔…〕。これは、明の嘉靖・万暦期に何らかの大変化が起こったことを示していると考えるよりほかあるまい。(pp.29-30)

 

 明末当時、書物の量や種類が拡大していたことを示す例として、万暦20年(1592)の進士・謝肇淛『五雑組』巻13「求書」を引いています。

 

★謝肇淛『五雑組』巻13「求書」

 書物を求める方法については、鄭樵の『通志』ほど詳細なものはなく、胡応麟の『経籍会通』ほど精密なものはない。後に著作をするものがあっても、それにつけ加えるものはない。最近になって、変わった書物があいついで出され、何から何までが出版されている。旧家の壁に塗り込められていたものもあれば、好事家の家の帳のなかにあったものもあり、東観(後漢の宮中の図書館)の秘書、昭陵に殉葬されたもの(唐太宗の墓に王羲之の真跡をはじめとする図書文物が収められた)もあれば、伝記を集めたもの、あるいは鈔録した残余もあるが、その間には、たよりにならないあやまり、にせものなどが絶対ないとどうして保証できようか。(p.30)

 

 

●顧炎武の蔵書(pp.31−33)

 ここで清朝考証学の先駆けをなした顧炎武の「鈔書自序」の一節が引用されます。

 

★顧炎武「鈔書自序」(『亭林文集』巻2)

 炎武の祖先は、海のほとりに住み、代々学者であった。高祖(祖父の祖父)が給事中の官についたのは正徳年間(一五〇六〜一五三一)の末のことであった。そのころ天下ではただ王府と官庁、そして建寧(福建)の書坊(出版業者)だけが書物の版木を持っていた。世上に流布していたのは、「四書」「五経」『資治通鑑』及び『性理大全』などの書ばかりであった。その他の書物となると、たとえ刊行されたものがあったとしても、古のことを好む家でなければ所蔵していなかった。それでも我が家には、すでに六〜七〇〇〇巻の書物があったのである。(pp.31−32)

 

ここには正徳年間ごろの書物の様子が記されており、次のことが分かります。

 

 ・当時の出版が行われたのは、王府・官庁・福建の書店であった

 ・出版内容は主に「四書」などの一般的あるいは実利的なものであった

 ・他の書物は刊行されても流通量が少なく、普通の家では多くの書物を持つことはなかった

 

 「鈔書自序」は続けて嘉靖年間以降の状況についても記しています。嘉靖年間に倭寇のために6〜7000巻の蔵書は全て焼失してしまいましたが、顧炎武の曽祖父・顧章志は以前の蔵書量を上回る書物を一代にして集めることができたそうです。このことから次のことが言えます。

 

 ・万暦当時、書物が増え、多くの書物が市場に出回っていた

 ・宋元版などでない限り、手頃な価格であった

 

 顧章志の蔵書の一部は、顧炎武の祖父が継ぎ、祖父・父の二代で再び蔵書量は増えたといいます。大木氏は「このように完備された蔵書を背景にして、考証的学問の一つの極致を示したといってよい『日知録』をはじめとする顧炎武の著作も、可能になった」(p.33)と述べています。

 

 

●明末、出版文化人の登場(pp.33-38)

〈明末の出版文化の隆盛を示す特徴〉

☆特徴①:新刊書の増加

 明末になると、前人による書物や古典に加えて、同時代人による書き下ろしの書物の刊行が多くなりました。(※謝肇淛『五雑組』参照)

 

☆特徴②:「出版文化人」の登場

 明末になると、出版業によって生活を立て、それで名声を得たいわゆる「出版文化人」が数多く現れました。

 

◎陳継儒(1558-1639)

銭謙益の『列朝詩集小伝』丁集下「陳徴士継儒」に次のような一節がある。

 

 陳継儒はまた、呉越間の貧しい儒者や年老いた僧侶道士で、生活に困り餓えこごえている者を招き集めて、書物のなかから章節や語句を探しては切り取らせ、それを分類し、こまごまとした話や平素見かけない事柄を取ってきては、それらをかき集めて新たに書物を編み、遠近に流伝させた。知識見聞の少ない者は、争って買い求め、枕中の秘とした。かくして陳継儒の号である眉公の名は天下を揺り動かしたのである。遠くは異民族の酋長たちまでもがみな彼の詩文を乞い、近くは酒楼茶館ではどこでもその画像を掛けた。はなはだしきは、小さな村や町で味噌醤油を売るような者までが、彼らの商品に眉公の名をつけないものはなかった。地方官たちが都で報告する時に、推薦状に陳眉公の名がないことはなく、天子もその名を聞いて、しばしば詔を下して徴用しようとした。

 

〔…〕さて、陳継儒は、もともと科挙による栄達をめざし、科挙の試験を受けつづけていたが、合格できず、二九歳の年に科挙の道をあきらめ、山にこもって隠者になる。しかしながら、隠者であった陳継儒は、右のようなアルバイトを使った切り貼り作業によって、多くの書物を編纂刊行したのであった。このようにして作られた書物が飛ぶように売れ、陳継儒の名は当時の社会にあって、上は皇帝から下は村里に至るまでの広い階層に、とどろき渡ったのである。(pp.34-35)

 

李贄李卓吾、1527-1602)

李贄の)思想が流行現象を見せた背後には、著書がどんどん印刷され、広まっていったことがある。李卓吾は、当時の小説戯曲などの批評家としても知られ、周亮工『書影』巻一に次のようなことが見える。


 葉文通、名は昼、無錫の人である。多くの書を読み、才情に富んでいたが、仏教道教に心を寄せ、ことさら変わった行動をとっていた。(中略)李卓吾の『焚書』『蔵書』などが流行していた時のこと、出版界では種々の書物が李卓吾の名を借りて通行していた。だが、『四書第一評』『第二評』『水滸伝』『琵琶記』『拝月記』などの批評は、いずれも葉文通の手から出たのである。

 

 つまり、もっぱら李卓吾評を偽作する人物までがあったわけである。李卓吾も、そしてまたこの葉文通なども、その名を当時の「出版文化人」の列に加えることができるだろう。

 

 

☆特徴③:出版の主体の変化

〈中国における出版の主体〉

 ・官刻=中央あるいは地方の官署がお金を出して出版

 ・家刻=個人がお金を出して出版

 ・坊刻=書店による商業出版

阿部隆一「宋元版所在目録」を見ると、宋元版においては明らかに官刻の書物が多い。それに対して、明末に至ると、家刻と坊刻の比率が高くなっている。つまり、中国出版史においては、官刻から坊刻へと次第に推移する傾向を見ることができるのである。(pp.36−37)

 

 李詡『戒庵老人漫筆』には、科挙合格者の答案が印刷出版されていた当時の状況が記されています。

 

★李詡『戒庵老人漫筆』巻8「時藝坊刻」

 わたしが若いころ、科挙の試験勉強をしていた時には、学生の小論文(ここでは八股文のこと)が刊本になることなど決してなかった。利にさとい書店が、友人たちの家に出入りして、窓辺で小論文数十篇、各篇ごとに二、三〇枚も書き写して、わたしの家塾にやって来る。こちらはそのうち幾篇かを選んで買い求め、一篇ごとに二文か三文の値段であった。唐順之が会元(郷試の首席)として及第した時、その答案も無錫出身の門人である蔡瀛が、その親戚の一人とともに刻したものであった。薛応旂が合格した時、その三つの答案はわたしがその常熟の門人銭夢玉に勧めて、東湖書院で印刷させた。当時はまだ書店による版本があったとは聞いていないが、いまはどれもこれもみな坊刻(商業出版)になってしまった。これもまた世の風気が華美になったことのあらわれの一つである。(p.37)

 

 今でも、高校大学受験などの過去問題集は非常に一般的なものとして大いに出回っていますが、当時も同じだったということが分かりますね。

 

 

●大規模な叢書の刊行(pp.38-41)

☆特徴④:大規模な叢書の流行

 明代以前にも既に叢書の刊行は始まっていましたが、明末には、宋元時代の叢書の再刊に加えて、数多くの叢書が新たに編纂・刊行されました。

 

 叢書のなかには、ある程度まとまったテーマに沿って書物を集めている場合もあるが、編者が入手した種々雑多な珍しい書物を集めて刊行する場合が多かったようである。自分が持っている何か珍しい書物を出版することは、名声を獲得する一つの手段でもあった。(p.39)

 

 大木氏はこのように述べ、呉敬梓『儒林外史』第8回に見える、蘧公孫が偶然入手した珍しい書物(『高青邱集詩話』)を出版して名声を得た話を引いています。

 

 刊行の目的はどうあれ、叢書の出版が文人に及ぼした影響は非常に大きいものでした。

 名を挙げるためとばかりいってしまうと、叢書について否定的に過ぎるが、こうした叢書の刊行が、読書人に与えた影響には計り知れないものがある。それまで、なかなかみることがかなわなかった書物が、叢書一つを購入することで、手元に置いて見られるようになったのであるから。

 先に引用した(31頁参照)清代初期の考証学者である顧炎武の場合も、その蔵書の少なからぬ部分が叢書だったにちがいない。多くの資料、多くの版本を用いて文献研究を行なう考証学という学問が、そもそも多くの書物を参照できないところには起こり得ない学問であることを考えると、清代の考証学は、明末のメディア革命、とりわけ叢書の刊行によって刺激を受けたであろうことは、言をまたないのである。(p.41)

 

 

●明末の読者と書物の価格(pp.41-45)

☆疑問:明末になぜ出版がこれだけ盛んになったのか?

★理由:書物の読者がそれ以前に比べて増えたため

 

 ここで大木氏は社会階層を分けたピラミッド・モデルを想定し、社会を大きく識字層(Ⅰ)と非識字層(Ⅱ)に分け、更には識字層を皇帝を頂点とする官僚・郷紳・大商人の上層階級(Ⅰ―①)と、科挙受験生・都市の中規模の商人・僧侶・道士などの中間層(Ⅰ―②)に分けました。

 

 このⅠ―①に属する人々が、書物の購読者として最もふさわしい人々であることはいうまでもない。しかし、こうした人々は、明末に限らず、いつの時代にあっても書物の購読者であったろう。明末に出版が盛んになった背景には、端的にいえば、このⅠ―②の部分、つまり科挙の受験生や商人たちが、それ以前の時代に倍して、書物を買って読むだけの余裕が増えたことによると考えられる。科挙と出版には深い関係があるのである。

 科挙の本試験である郷試を受験するためには、まずその予備試験である童試に合格して、各地に置かれた学校の学生である生員の資格を得なければならない。その生員が、明末当時には全国で五〇万人を下らなかったといい、とりわけ南京、蘇州など経済的な先進地域であった江南地方の大都市になると、一つの学校に一〇〇〇人からの生員があったという。童試の受験生を数えれば、さらに多くの受験生があったことになる。その彼らは、何といっても科挙儒家を目指すからには、文字を識り、書物の購買者、読者としてふさわしい人々であった。明末にはこうした読者層としての生員が、前代以上に増えたのである。(pp.42-43)

 

 また、科挙受験生が増えただけでなく、商人たちも通俗的な書物を買って読むようになっており、それだけ読者層が拡大していたことが分かります。

 

 

☆疑問:明代における書物の価格はどうだったのか?

当時にあっては、現在のように定価というものはなかったようで、基本的には本のどこを見ても価格が書いてあるわけではない。しかしながら、時に書物の封面(扉)の部分に、価格を書いた印が捺してあることがある。それらを見ると、たとえば、

 『万宝全書』――銀〇.一両

 『新調万曲長春』――銀〇.一ニ両

 『曾南豊先生文集』――銀〇.八両

 『列国志伝』――銀一両

 『封神演義』――銀二両
といったところで、もちろん質により量によってさまざまながら、書物の価格は、おおむね銀一両以内、平均すれば銀〇.五両といったあたりであろう。当時の県知事クラスの官僚が政府から支給される月給がおよそ銀一二両だったという。実際には給料以外の収人があるから、収入はより多くなるのだが、だとすれば、支給された月給の五%から一〇%で一部の本が買えたことになる。これを高いと見るか、安いと見るかは微妙なところであるが、一般的にいって、明末における書物の価格は、少なくとも本を買って読もうという意志を持った人にとっては、安かったといえるのではなかろうか。(pp.44-45)

 

大木氏も言っていますが、一部の書物が月給の5〜10%とは、高いのか安いのか私には判断できません(当時の物価や一般的な支出状況などを考慮に入れる必要があるでしょう)。でもこのように具体的な金額が分かるだけで、当時の人々の生活がほんの少しイメージできるようになりますね。このような社会的・経済的な角度から文学の受容状況を調査するのも面白いと思います。

 

 さて、今回で本書を扱うのは終わりになります。第2章以降も非常に興味深く、濃い内容です。特に明末の出版や受容状況に関心のある方にはオススメです。ではまた次回で。

 

ぴこ

大木康『中国明末のメディア革命』を読む(1)

 今回からは、大木康『中国明末のメディア革命 ―庶民が本を読む―』(刀水書房、2009)の中から、第1章「中国書籍史における明末」を読んでいきたいと思います。ちなみに、本書の前段階的な書籍として『明末江南の出版文化』(研文出版、2004)がありますので、余裕がある方は合わせて読めば、より理解が深まるかと思います。

 

 まず、タイトルにある「メディア革命」について大木氏は次のように述べます。

 明末、およそ嘉靖年間ごろから、多くの書物が出版されるようになった。それは、今日日本の図書館でさえ、全面的な貴重書扱いを不可能にするといってよいほどの(引用者注:この前で、大木氏は、中国書に関しては嘉靖元年以前に刊行されたかどうかを貴重書として扱うかの判断基準とする図書館が多いと述べる)、爆発的な分量なのであった。(「はじめに」、p.Ⅱ)

 

 本書第1章では、中国書籍史、特に木版印刷史の中における明末の位置づけについて論じています。出版や受容といった視点も文学研究には非常に重要となります。今回は明代以前について述べられた部分について、適宜要約しつつ読み進めていきたいと思います。

 

●「陀羅尼」に始まる印刷(pp.16-19)

 以下は、本節の内容を大まかに要約したものです。

 

 現存最古の印刷物は韓国慶州仏国寺の釈迦石塔から発見された「大陀羅尼経」とされ、則天文字が用いられていることからおよそ700年ごろに印刷されたものと考えられています。その他、成都の唐代の墓から出土した「陀羅尼経呪」(757年)、日本で印刷された「百万塔陀羅尼」(764年)など、初期の印刷物は「陀羅尼」がほとんどで、書物ではありませんでした。出土状況や当時の文化や技術から考えて、印刷技術は長い時間をかけて中国で唐代初め(7世紀頃)に完成されたと言えます。

 

 一枚物の陀羅尼ではなく、印刷された書物として最古とされるのは、敦煌出土の『金剛般若波羅蜜経』(868年)です。巻頭には精緻な仏画を付し、七枚の紙を貼り継いだ巻子本となっています。

 また、865年に日本に帰国した留学僧宗睿が持ち帰った『新書写請求法門等目録』に「西川(四川)印子(印刷された書物)『唐韻』一部五巻 同印子『玉篇』一部三十巻」と見え、実用的な印刷物もあったことが分かることなどから、9世紀の唐末頃には印刷がかなり普及していたと言えます。

 

 印刷の利点は、同じものを数多く作れることであるから、字書、暦など需要の多い実用的なものが印刷されたものも、もっともなことである。だが、ここまでに挙げた初期の印刷物は、その大部分が仏教に関わるものであることは注意されてよい。印刷術はほぼまちがいなく仏教の世界、あるいは少なくとも仏教にごく近いところで発明されたといってよいのではないかと思う。(pp.18-19)

 

●仏教の世界と印刷術(pp.19-20)

☆疑問①:なぜ仏教の世界において特に印刷術が発達したのか?

 

 前節を読めばこの疑問が浮かび上がるのはごくごく自然なことでしょう。これについて大木氏は二つの理由を挙げます。

 

★理由①

仏教にはもともと数の多さを問題にする傾向がある。先の百万塔しかり、千手観音しかり、また千仏洞しかりである。多くの仏像なり、経典なりを作る必要があったこと、これが一つの理由である。(p.19)

 

★理由②

仏教においては、多くの人に教えを伝えるべきことが、はじめから教理に組み込まれていたのであり、そこに印刷物が必要とされる必然性があった。仏教(また道教でも)の善行の一つに「印造経文」が挙げられる。経典を印刷し、広く人々に施すことは、大きな善行であり、それが果報を生むとする考え方である。その後の膨大な量に及ぶ「大蔵経一切経)」の刊行、また信徒が施しとしてお金を払って仏典を刊行し、それらを寺院などに置いて無料で配布する、今日でも行なわれている善書の風習など、仏教徒印刷には深い関わりがある。儒教が中国における国家教学として早くから権威づけられていたのと比べると、新興であった仏教はそれだけ広い範囲への布教の必要に迫られ、それが印刷物の利用に結びついたのではないかと思われる。(pp.19-20)

 

 このようにどうやら仏教と印刷の密接な関わりを持っていたらしいことが分かりましたが、大木氏はこのように続けます。

 

とはいえ実際には、むしろ施しをすることそのものに意味があったようで、印刷された大量の仏典をほんとうに多くの人が読んだかどうかは定かではない。逆に今日の写経など、手ずから心をこめて経典を書き写す行為の方により多くの意義を認めるとすると、印刷というのはある意味できわめて安直な行為であったといえなくもない。唐の時代に中国から日本に将来された仏典は、僧侶たちの手によってもたらされたものと思われるが、それらのうちに印刷された仏典がなかったことは、この想像を裏打ちするかもしれない。(p.20)

 

 既製品を買うよりも自分で苦労して作り上げたものの方が価値がある、といったような考えに近いでしょうか。なんだか人間味があって面白いですね。

 

●馮道と印刷術(pp.21-23)

☆疑問②:中国では印刷の始まりはどのように考えられていたのか?

 

 この疑問に対する回答として、南宋・葉夢得『石林燕語』と明・陸深『金台紀聞』の一節が引かれています。

 

南宋・葉夢得『石林燕語』巻8

 世上では木版印刷は馮道に始まるといっているが、これは正しくない。ただ国子監における「五経」の出版を、馮道が行なっただけである。柳玼の「訓序」に、彼が蜀にあった時、書肆を見たところ、字書などの類の書物は版木に彫って紙に印刷するのが習いとなっていたとあるから、唐の時にすでにあった。ただおそらくは今の精巧さに及ばなかったのである。

 

★明・陸深『金台紀聞』

後唐明宗の長興三年(九三二)、国子監に命じて「九経」を校定させ、刊行して売り出した。その議は馮道から出た。これが書物の印刷の始まりである。

 

 これらの記述から当時、木版印刷を初めたのは五代の人である馮道(882-954)という言説が広く伝わっていたことが分かります。続けて述べられているように、『旧五代史』などによると、馮道は実際に「九経」の版木を彫ることを発案したとあります。しかし、これより前に仏教経典の印刷が既に始まっていたので、大木氏は、馮道は正しくは「最初に儒教の経典を印刷した人物」であったと言います。

 

〔…〕たしかに「陀羅尼」はかならずしも書物とはいえないし、『金剛般若波羅蜜経』にしても、「九経」に比べれば、小さな書物である。そう考えれば、印刷は昔からあったが、はじめて書物らしい書物を印刷したのは馮道である、というのもわからないわけではない。だが、葉夢得の『石林燕語』にしても、馮道以前の印刷の例として挙げているのは、柳玼「訓序」に見えた、字書などの書物であって、仏教の世界の印刷については、まったく無視しているのである。あるいは中国の知識人たちは、印刷術発明の功を、外来の宗教である仏教に帰することが耐え難かったのではないか。そのまた、あえてそれ以前の歴史を無視し、馮道を印刷術の元祖と称したのではないか。そう思えてならない。

 その馮道という人物は、五代の五つの王朝に宰相として仕えた人物として、後世の評価はかならずしも高くはない。一方で、乱世にあって従来の常識にとらわれない人物であったこともたしかであって、儒教経典である「九経」の印刷は、いまにして思えば何でもないことのようだが、馮道によるその発案は、当時の常識からすればよほど型破りな行動だったのかもしれない。(pp.22-23)

 

 ここに見える、儒教世界に生きる知識人の外来の仏教に対する抵抗・反発という考え方は、ここではあくまで憶測として述べられていますが、次節でキーになる視点です。

 

●唐・宋の印刷需要(pp.23-25)

☆疑問③:唐代には科挙も行なわれ、儒教経典の需要があったはずであるにも拘らず、印刷術発明から馮道まで約200年間、儒教経典が印刷されなかったのはなぜか?

 

★理由

 それは結局のところ、儒教に先んじて経典を印刷し、布教活動を行なっていた仏教への反感、そしてまた、儒教の側にあった、経典印刷への一種の抵抗感のためだったのではないかと思われる。仏教が布教を重んじたのと異なり、儒教経典の学習は、いわば当時の支配階級の特権的な学習教育内容であった。そのため、この時代においては、広く世の中一般に伝わる必要もないし、またそれをあまりに広く伝えることへの抵抗もあったのではないか。そのことは言い換えるならば、儒教経典への需要が、唐代においては、まだ印刷しなくてもやってゆける程度だったことを意味するであろう。やがて五代、宋に至って、それらが印刷されるようになったのは、需要がそれだけ増えたからにほかならない。(pp.23-24)

 

 ここに述べられるように、唐代から五代・宋にかけて、儒教経典の印刷状況は変化しました。そしてこれには社会背景の変化が大きく関わっていると言います。

 

 唐代にはすでに科挙が行なわれていたものの、唐代はまだ六朝以来の門閥貴族時代の名残をとどめており、科挙によらなくても任官できる道が残されていた。唐代の科挙は礼部(文部省)が主催するものであって、合格者に与えられる進士の称号も、かならずしも皇帝が認定するものではなかった。ところが宋代になると、仕進の道は科挙一本になり、みんなが科挙に殺到することになる。科挙の権威も高まり、進士の地位は皇帝が主宰する殿試を通して認められることになる。当然、より多くの人人が経書の勉強をしなければならなくなる。(p.24)

 

 大木氏は例として『文選』を挙げます。『文選』は科挙において重んじられましたが、唐代では印刷された形跡がなく、多くの刊本が出現するのは宋代に入ってからでした。このことからも「唐代における学問は、社会全体から見れば、まだ一部少数者の特権的なことがらだった」(p.25)と述べています。

 

●宋代、印刷本の普及(pp.26-28)

 宋代における印刷本の普及状況を垣間見ることができる資料として、大木氏は北宋の蘇軾「李君山房記」と、元末の宋濂「送東陽馬生序」を引いています。

 

北宋・蘇軾「李君山房記」(『経進東坡文集事略』巻53)

 秦漢以来、著作をする者はどんどん多くなっていった。紙と文字とは日を追って手に入れやすいものになってゆき、書物はますます多くなって、世間にないものはないほどである。それなのに、学者たちがますますいい加減になってゆくのは、いったいどういうことなのだろうか。わたしはある老儒先生が次のようにいわれるのを聞いたことがある。「若かった時には、『史記』『漢書』が読みたいと思っても、なかなか手に入らなかった。幸い見られた時には、どれも手ずから書き写し、日夜声に出して読み、ただ至らないことを恐れるばかりであった。近年では商人たちがどんどん刊行し、諸子百家の書物が毎日万紙も伝わっている。書物は作者にとって、これほど多くかつ簡単なものとなっている。それは文学や学術にとって、昔の人に数倍の利点があるはずである。それなのに若い科挙の士たちはみな、書物を積んだままにして読まず、根も葉もない議論ばかりしている。これはいったいどういうことなのだろうか」。(p.26)

 

★元末・宋濂「送東陽馬生序」(『宋学士文集』巻73)

 わたしは幼少のころから学問好きだったが、家が貧しかったため、書物を取り寄せて読むことはできなかった。いつも蔵書家から借りて、みずから筆写し、期限を定めて返していた。非常に寒く、硯の墨が凍り、指がかじかんでいるような時でも怠けず、写し終わると届けにいった。少しばかりも約束の日を過ぎることがなかったので、人はたいてい書物をわたしに貸してくれた。わたしはお陰で、多くの書物をくまなく読むことができたのである。(p.27)

 

 北宋期には様々な書物が印刷されて以前に比べて入手しやすくなったとはいえ、元末に至っても依然として高価なものであったことが分かります。そのため、宋濂のような貧しい者は、人から借りて自ら書き写すほかありませんでした。

 

 井上進『中国出版文化史 書物世界と知の風景』第十章「特権としての書籍」でも、宋代はたしかに刊本はあらわれたものの、やはり当時の書籍の主流は鈔本(写本)であったと述べている。〔…〕鈔本は手間を惜しまなければ自分自身でどんどん作ることができたが、刊本は結局のところ、誰かが出版したものを、お金を出して買わなければならなかったからである。(pp.27-28)

 

 しかし、ここで注意すべきは、鈔本が主流となっていた宋元期においても依然として仏教関係の書物は印刷され続けていたということです。

 

 ただし宋元の時代に刊本が比較的少なかったろうというのは、「外典」すなわち仏教以外の書物の場合であって、宋代以後の印刷普及時代に入って、もともと先進的であった仏教関連の書物の印刷は、ますます発展することになる。日本にあって、「外典」である宋版の『史記』や『文選』などは国宝に指定されているが、実は「内典」の仏教書については、かなりの数の宋元版が現存しており、国宝、重要文化財に指定されているのは、そのうちほんのわずかにすぎない。数があまりに多いからである。宋元版というと、もっぱら「外典」が問題にされるが、実は「内典」の部分もたくさん存在したのであって、印刷技術が仏教以外の世界に及ぶようになった後も、仏教の世界における印刷は決して衰えを見せたわけではないことを忘れてはなるまい。(p.28)

 

 以上、今回は明代以前の内容について読んできました。次回は明代における出版状況の変化について読み進めていきます。ではまた次回。

 

ぴこ

 

小松謙『詳注全訳水滸伝』

 今年8月、汲古書院から、小松謙氏の『詳注全訳水滸伝』第1巻が刊行されました。購入予約していたために刊行された翌日には手元に届き、開いた瞬間、「あぁ、これはとんでもない大著が出たぞ」と確信しました。そこで今回は本書の特徴を紹介した上で、僭越ながら様々な読者層に向けて本書の読み方を提案したいと思います。ちなみに詳注全訳本(私が勝手にこう呼んでいます)は全13冊だそうで、年2〜3冊刊行予定のようです。

 

本書の特徴

①原文に即した翻訳

 小松氏は本書「解説」で次のように述べています。

(従来の翻訳は、吉川・清水訳を例外として)いずれも語りのスタイルを取らず、かつ息の長い語りを適宜切って、ある程度の意訳をも行っている。吉川・清水訳には原文の雰囲気を伝えようという意図は認められるが、日本の講釈に似せようという意図が強すぎたため、結果的に原文を乖離した点も認められる。

 今回の翻訳では、原文の雰囲気を可能な限り日本語に移すことを目指した。原文は講釈師の語りのスタイルを取り、非常に息の長い語りが、多くの人称代名詞や指示詞を伴って続けられる。これをそのまま日本語に移すとかなり不自然なものとならざるをえないが、しかし訳しやすいように切り、人称代名詞や指示詞を削除してしまうと、原文の雰囲気は失われる。訳文を作るにあたっては、饒舌な語りのスタイルを取り、息の長い語りもできるだけ途中で切ることなく、人称代名詞や指示詞も、日本語としてあまりにも不自然にならない限り、できるだけ残した上で、自然な日本語になるように努めたつもりであるが、成功しているかどうかには確信が持てない。このような翻訳の方法を取ったのは、筆者自身のかねてよりの信念に由来するものではあるが、芳川泰久氏が新潮文庫から二〇一五年に刊行された『ボヴァリー夫人』の新訳を読んで、原文に忠実に訳した翻訳がもたらす効果のすばらしさを知ったことからも大きな影響を受けている。(「解説」pp.ⅴ-ⅵ)

 講釈師の語りの体裁を取る『水滸伝』の生き生きした白話話し言葉をできるだけ忠実に訳そうという姿勢が見て取れます。

 そしてその翻訳を支えているのが本書に大量に附せられた注に見える、非常に綿密な考察です。

 

②極めて緻密な注

 書名に「詳注」とあるように、本書の一番のウリは、大量に附せられた注にこそあるといえるでしょう。本書は導入部分である「引首」から第6回までを収録していますが、全体で合計2,011個もの注が附せられています。私自身はといえば、ゆっくりじっくり読み進めているため、まだ第2回の途中までしか到達していません。第2巻が出る前には読み終えたいものです。

 

 注の内容は大きく分けて3種に分けられます。

 

(1)原文中の語句についての解説

 これが「注」としては最も基本的で、一般的にイメージされやすいものでしょう。その語句の意味について、歴代の用例などを示しながら解説するものです。しかしながら、白話語彙は表記や文法が不安定だったり、意味が取りづらいものも少なくありません。本書の注の特徴として、詩詞や散文、歴史書だけでなく、戯曲や平話の用例が多く提示されていることが挙げられます。小松氏はそもそもは戯曲を研究されており、戯曲を含めた「白話文学」という大きなくくりでもって研究を進めたと述べています(「あとがき」p.310)

 

(2)版本ごとの字句異同の提示及び、異同の要因・意味についての考察

 本書は文繁本(テキストが詳細なもの。一方でテキストが簡略化されたものは「文簡本」と呼ばれる)のうち現存最古の完本である容与堂本を底本に用いています(3種ある容与堂本のうち、本書が底本としたのは中国国家図書館所蔵の「北京本」)。多種の版本を有する『水滸伝』では、度々本文の改変が施されており、そこには編纂者の意図や、語彙使用の変遷の様相などが表れています。本書では多くの版本を用いて校勘しており、語句の異同がある場合は逐一注釈で指摘し、その改変の意味するところを考察しています。校勘に用いられたものは以下の通りです(「解説」pp.ⅶ-ⅷ)

 

・完全な校勘の対象となっているもの

1.中国国家図書館所蔵「容与堂本」(=北京本)

2.石渠閣補刻本

3.無窮会蔵本

4.遺香堂本

5.全伝本(=百二十回本)

6.金聖嘆本

 

・随時言及するもの

1.国立公文書館内閣文庫所蔵「容与堂本」(=内閣本)

2.天理大学附属天理図書館所蔵「容与堂本」(=天理本)

3.鍾伯敬批評四知館本

4.全書本(=百二十回本、全伝本系統より刊行が遅い)

5.『水滸志伝評林』〔文簡本〕

6.劉興我本〔文簡本〕

7.『二刻英雄譜』〔文簡本〕

 

 これらの版本の選択は『水滸伝』テキストの発展を考える上で十分な妥当性を有しているわけですが、そのことについて詳しく知りたい方は、小松氏の著書『「四大奇書」の研究』(汲古書院、2010)や『水滸傳と金瓶梅の研究』(汲古書院、2020)などをご覧ください。言葉を選ばず言えば、文字異同の指摘は原文さえ手元にあれば誰でもできます。その異同の意味するところを綿密に考察している点こそが、本書の注の長所のひとつです。

 

(3)評語の日本語訳

 さて、普段『水滸伝』批評を研究している私としては、これが最も衝撃的でした。『水滸伝』をはじめとする白話小説には、批評者による評語(総評、夾批、眉批など)が書き込まれています。そこには批評者の作品の見方が大いに反映されています。本書では、「『水滸伝』に附された批評が中国・日本双方の文学に及ぼした影響の強さに鑑みて」(p.ⅸ)、容与堂本と金聖嘆本の評語を全訳しています。ただし、金聖嘆本の各回冒頭に附せられた総評は収録されていません。

 評語は難解なものも多く、仮にある程度日本語に移せたとしてもそれの意味するところの解釈は一筋縄ではありません(私も日々苦悶しながら格闘しています)。その点でも、小松氏の功績は(少なくとも私にとっては)尋常ならざるものです。

 

 以上が、本書の大きな特徴と言えるものです。

 

 さて、本書を読もうという場合、どうやって読むのが良いのでしょうか。読む目的に合わせていくつかのパターンを提案しようと思います。

 

【パターンA】純粋に作品として味わいたい:『水滸伝』を初めて読む方など

 こういった方は、注はひとまず無視していただいて、どうぞ訳文をそのままお楽しみください。もとを辿れば講釈に起源を持つ作品です。例えば講釈師が語っていることをイメージしながら読むのもアリですね。

 ただ本書は完結していないのと、価格的に簡単には手が出せないというのがネックです。図書館などで借りられるという方であればまた別ですが、『水滸伝』を初めて読むという方は、まずは他の訳本を読んでいただいてから、改めて機会を見つけて小松訳を味わう、というのがいいかもしれません。そうすれば自然と次の【パターンB】の読み方ができます。

 原文に対する忠実度の見方から言えば小松訳は確かに優れているとは思いますが、どの訳本が自分にとって読みやすいか、合っているかは人それぞれだと思います。是非ともまずは他の訳本で作品を通読し、『水滸伝』の物語を楽しんでください。

 

【パターンB】小松訳の雰囲気を知りたい:他の訳本を読んだ経験がある方など

 既に『水滸伝』を読んだことがあり、小松訳で再読してみたいという方は、他の訳本と比較しながら、その雰囲気の違いを読み比べてみるのもいいと思います。『水滸伝』全訳本といえば、百回本を底本とする吉川・清水訳や井波訳、百二十回本を底本とする駒田訳などがありますが、読み比べることで、それぞれの雰囲気を実感できると思います。全てを読み比べるのは大変ですので、例えば王進と史進が出会う一節、魯智深が鎮関西を殴り殺す一節、など、部分的に抜き出して読むだけでも十分だと思います。

 ただ、佐藤訳や村上訳などは金聖嘆本を底本としているため、冒頭の導入の構成が大きく組み替えられているので注意が必要です。

 

【パターンC】原文と訳文を並べて読んでみたい:白話文を読んでみたい方、中国語学習歴がある方など

 ここからはややハードルが上がってしまいますが、『水滸伝』を原文で読んでみたいという方にとって、原文を忠実に翻訳することを目指した本書は有用です。『論語』や『史記』のような文言文を読んだ経験がある方にとっては、初めはかなり読みづらいかもしれません。どちらかと言えば、文言文を読んだ経験よりも現代中国語の学習経験の方が生きるかと思います。こういった読み方であれば、注の(2)・(3)は基本的に無視していただいて構わないでしょう。

 もし愛知大学の『中日大辞典』や大東文化大学の『中国語大辞典』などがあれば、より読みやすいでしょう。『中日大辞典』はオンラインでも検索できますのでそれも活用してみてください。ただしこれらの辞書でカバーできる範囲は限られていますので、そこは大いに訳文や注を参照してください。

 ただ問題は原文は何を使えばいいのかという点ですね。もし書籍を購入するというのであれば、影印本(原典の写真を印刷したもの)の用意は難しいと思いますので、用意するなら排印本(活字により印刷したもの、文字の誤脱の可能性に注意)がいいでしょう。容与堂本を底本にしたものですと、例えば上海古籍出版社のものなどがありますが、それでも高価です。

 というときに便利なのがやはりインターネットです。中國哲学書電子化計劃には容与堂本(北京本)の影印が掲載されています。影印では読みづらいということであれば、原文の正確さには注意しなければなりませんが、維基文庫で原文を参照するという手もあります。維基文庫には百回本・百二十回本・七十回本の3種の文繁本テキストが掲載されていますが、百回本はまだ第18回までしか載っていません。

 いずれにせよ、何とか百回本(百回本のテキストということであれば、よっぽど容与堂本に基づいているかと思います)のテキストを入手していただき、辞書を使いつつ、本書の訳文を参照しながら読んでいく、という読み方も十分可能だと思います。

 

 さて、これ以降のパターンは研究色がやや強くなります。

 

【パターンD】版本間の異同を見ながら読んでいきたい:白話小説テキストの成立や変遷、版本研究に興味のある方

 更にややハードルがあがりますが、中には白話小説テキストの変遷や版本研究に興味がある方もおられるかもしれません。そういう方は、ぜひ複数版本のテキストを手元に置きながら、注(2)を参照しつつ読んでいくことをおすすめします。

 その場合、手元には最低でも容与堂本・金聖嘆本の2種、可能であれば更に百二十回本のテキストをご用意ください。排印本で結構です。

 排印本であれば大抵、百回本は容与堂本、七十回本は金聖嘆本を底本としています。百二十回本の場合、時折、第71回までは金聖嘆本を、第72回以降は百二十回本を底本としているものもありますので(どうしてこういうことをするのか甚だ疑問ですが…)ご注意ください。百二十回本の版本は細かく分ければ「全伝本」系統と「全書本」系統がありますが、これはひとまず気にしなくていいです。

 

【パターンE】評語を味わいながら読んでいきたい:白話小説の小説理論や批評理論に興味のある方

 『水滸伝』に込められた小説理論あるいは、批評者、つまり李卓吾(偽託とされる)・金聖嘆の批評理論に興味のある方は、是非とも作品中に大量に見える評語を読んでください。お手元に百回本と金聖嘆本のテキストをご用意の上、評語が出現するたびに、その評語が意味するものは何か考えながら読んでいきましょう。注(3)を大いに活用してください。小松氏は評語の和訳だけでなく、一部の評語についてはその意味するところを考察しています。それを参考にしつつ読んでいけば、作者がテキストに込めた(と批評者が見做している)ニュアンスをより一層汲み取れるかもしれません。

 

【パターンF】本書の内容をあますところなく知り尽くしたい

 もっともっと余力のある方は、複数のテキストを手元に置いて、注(1)・(2)・(3)全てに目を通し、訳文を味わってください。正直全部をこなすのはキツいでしょうが、自分のペースでゆっくり頑張ってください。

 

 以上、本書の価値と魅力は伝わりましたでしょうか。やや研究者向けの本ではありますが、少しでも多くの方にご興味を持っていただけたなら幸いです。最近は注が充実している訳本が少しずつ出てきています(他には例えば、鳥影社から刊行された田中智行訳『金瓶梅』などがあります)。これはいわゆる一般読者だけでなく研究を志す者にとっても非常に有益なものです。こういった訳本の刊行に改めて感謝しつつ、私もどんどん読み進めていきたいと思います。

 

ぴこ

周勛初著/高津孝訳『中国古典文学批評史』(3)

 今回も周勛初著/高津孝訳『中国古典文学批評史』第十章「李贄と金人瑞の小説理論」(pp.419-433)の続きを読み進めていきます。前回は李卓吾の小説理論について論じた部分を読みましたが、今回は金聖嘆のパートに移ります。今回は、過去の記事で触れた内容を多く含んでいますので、過去記事をお読みいただいた方はより理解しやすいかと思います。

 

 まずは金聖嘆及び彼の小説理論の基本事項です。

 

 金人瑞(一六〇八〜一六六一)一名、喟、号は聖嘆、本名は采、字は者采、長洲(現在の江蘇省蘇州市)の人。彼は伝統、形式にこだわらないことで有名であり、文学においても独自の見解を有していた。また彼は「離騒」『荘子』『史記』、杜甫の詩、『水滸伝』『西廂記』に評点を加え「六才子書」[才能有る人が読むべき六つの書物]とし、『水滸伝』の文章が、『史記』をはるかに越えているということを論証する具体的な分析も行っている。それは、事実上、実在の人物、実在の事件を特徴とする史伝文学と虚構を特徴とする小説の創作に対しての比較研究となっている。歴史書は事実により制限を受け、ただ「文章で事実を運用する」だけである。文学の創作は具体的な人物や事実の制限を受けず、想像的作用を充分に発揮し、「文章によって事実を生み出」すことが可能で、表現されうる世界はよりいっそう広い。


 金人瑞の第五才子書『水滸伝』への批点は、李贄の影響を大きく受けているが、異なる点もある。彼の『水滸伝』批評は、李贄の学説を発展させたものであるが、『水滸伝』の思想内容に対する評価は、李贄の観点と全く対立するものであった。(p.423)

 

 話題はやや戻りますが、李卓吾評点本と彼の思想について補足がなされています。

 

 ここで説明しておかねばならないことがある。すなわち、明代の李贄評点と銘うつ小説について、その真偽を判断することは難しいことである。陳継儒『国朝名公詩選』李贄小伝にはこう言う。「民間の書店で出版された有名人の文集は、李贄によって選択されたと名を借るものが多く、伝奇小説までもが、皆な李贄先生におって評点が施されていると称している。ただ『坡仙集』[北宋・蘇軾の文集]と『水滸伝』叙だけが李贄先生の手に出るものであり、『水滸伝』中の細かな評点にいたっては、これも後人の偽託であるにすぎない」。この説は信頼するに足るものであるが、定説とはしがたい。というのは『三国志演義』『水滸伝』中の李贄評点の作者問題はしばらく置き、それを早期の小説理論として見るならば、それはなお歴史的価値を有しており、金人瑞の小説理論は、これら評点の基礎の上に発展してきたものだからである。


 李贄はこう考えている。北宋の政治的混乱と北方の金朝との軍事的問題の激化は、「世の中の英雄、賢人を駆りたて、ことごとく水滸[梁山泊]に結集させた」、それゆえに「忠義」[忠義の士]は「水滸に帰し」たのである。ここで、李贄は、『水滸伝』の英雄の才能と品性について肯定的評価を下している。当然、李贄は、「忠義の士は、水滸[梁山泊]にあるのではなく、すべて君主の側近くに在る」ことを希望している。それゆえ、彼は、動揺して投降した宋江に対する評価が高いのであり、このことからも、彼の思惑が明朝政権擁護にあったことがわかる。(pp.423-424)

 

 『水滸伝』に限らず、李卓吾による評点を謳った版本はいくつか存在していますが、一般的には李卓吾に偽託したものと見做されています。李卓吾批評本については、例えば廣澤裕介「明末江南における李卓吾批評白話小説の出版」(『未名』24、pp.1-31、2006-3)などで詳しく論じられています。

 実際に李卓吾の手によるものとされる「忠義水滸伝叙」については以前記事に書きました(李卓吾「忠義水滸伝叙」を読む)。基本的に李卓吾梁山泊好漢を忠義の士として高く評価しており、後述されるように金聖嘆とは真逆の「水滸観」を有しています(これについても過去に幾度か触れたことがあります)。以下しばらくは、李卓吾と金聖嘆の対立する思想について述べられています。

 

しかし、金人瑞は、李贄と態度を異にする。金人瑞は、明末に頻発した反乱の激化におそれをなし、それを仇敵視した。それゆえ、百二十回本の『水滸伝』をまっ二つに切り七十回本としたのである。金人瑞は後半五十回中の方臘征伐に関する粗雑な文章を削り去って小説の精粋を残し、一篇の完全な芸術的傑作としたのであり、高い文学的見解を具えており、客観的に言って『水滸伝』の伝播に対しすぐれた役割りを果たしたと言うべきである。しかし、末尾に、梁山泊の英雄が夢の中でうちそろって殺されるというストーリーを付け加えたことは、反乱に参加したものは全て処刑されるべきだということを表わしており、これもまた彼の保守的思想の表現であるとしか言えない。このため、金人瑞は、李贄が『水滸伝』の英雄を「忠義」であると賞賛することに否定的で、「そもそも梁山泊に忠義の士がいて国家には忠義の士はいないということなのか」と反問している。ここで、彼は「名を正す」ことに急ではあるが、そもそも『水滸伝』中の宋朝政権に「忠義」の人物がいるということ自体証明するすべはない。


 李贄は、司馬遷の「憤を発して書を著す」説を引用して、作者施耐庵羅貫中の二人は「元朝に生まれたけれども」、宋代において政治が腐敗し、つまらぬ人間が高位をかすめ取ったため、異民族の侵入が引きおこされたのを目にして、憤懣やるかたなく『水滸伝』を書いたのだと考えている。こうした解釈は、『水滸伝』創作の現実と必ずしも一致しないが、李贄の意図は、『水滸伝』の作者が内心深く感ずるところがあって、「珠玉の名作が生まれる」ことになったのだということにある。金人瑞はこれを否定した。施耐庵とかいう奴は、「何不自由無い満ちたりた生活をおく」っていたので、「紙をひらき筆を手にして」、気晴らしのために『水滸伝』を創作したにすぎない。「後世、人々はこの事を知らず、かえって『水滸伝』の名の上に「忠義」の二字を加え、司馬遷の述べる「憤を発して著を書す」の一例として同列に置いたのは、全くおかしい」。この一文から、金人瑞は意識的に李贄に反対する立場に立ち、『水滸伝』の作者の創作動機に対して通俗的な説明をしたことが分かる。したがって、その思想的レベルは低く、李贄と並び論ずることはできない。

 

 両者の『水滸伝』の忠義に対する認識の違いについては過去にも何度か触れたことがありますが、このように真っ向から対立しています。

 

 金聖嘆の思想的水準は李卓吾と「並び論ずることはできない」と評する周氏ですが、金聖嘆の小説技法に対する批評については高く評価しています。

 

 しかし、金人瑞は小説の創作については理解が深い。彼は時文[科挙受験用の文体]の影響を受け、八股文に評点を加える方法を用いて『水滸伝』を分析した。その際、多くの形式主義的な名目、「草蛇灰線法」「綿針泥刺法」「鸞膠続弦法」等を用いたことは、彼の思想上の陳腐な点を示してはいるが、しかしながら、『水滸伝』の評点におけるこれらの欠点は、なお長所を帳消しにする程ではない。彼は文学作品中の形象性問題に注意を払い、特に人物の性格について細緻な分析を行い、これまでにないレベルに到達することができたのである。

 

 金人瑞は「読第五才子書法」中にこう述べている。「他の書物なら一度ひととおり読んでしまえば、それで終わるが、水滸伝だけは、読みあきることがなく、百八人の性格を全て描写しつくしているといえる程のものだ」。また「『水滸伝』は百八人の性格を描写して、本当に百八様である。他の書物の場合、一千人を描写したとしても、千篇一律にすぎず、たとえただ二人だけの描写でも、やはり変わりはない」。これは小説が成功するかどうかは、人物をうまく描写できるかどうかにかかっているということを言うものである。


 金人瑞は、登場人物の言葉と行動を通して、性格を分析している。たとえば、『水滸伝』第十回では、林冲が王倫たちに自らを梁山泊に受け入れてくれるよう求めるシーンの描写があるが、金人瑞のコメントは次のように言う。「林冲の言葉である。⋯⋯彼の言葉は世間一般のこせこせした人の言葉ではないが、決して魯達、李逵の口調でもない。ゆえに、『水滸伝』は林冲を描写するとき、全く別種の文章になっている」。さらに第二十五回で、武松が都開封から陽穀県にいそいでもどり、あわてて武大兄貴に面会するシーンでは、「ここでは、「友于」「恭敬」等の兄弟間の友愛を示す言葉を全く用いずに、兄弟の恩情、骨肉の情をよく描写しており、経書の言葉を集めて、飾った文章を作る現在の作家達と比べると、全く雲泥の差がある」とコメントしている。これらのコメントは、概念化した陳腐な表現では豊かなイメージを生み出すことはできず、ただ行動を通じて人物を描写することではじめて精彩ある性格を描き出せるのだということを示している。


 金人瑞は比較という方法を用いて、人物の性格を分析している。たとえば、『水滸伝』四十二回の李逵が虎を殺すシーンでは、武松の虎退治の一段を引いて比較を行っている。金人瑞のコメントは、「水滸伝は武松の虎退治を実に精密に細やかに描写しているが、一方李達の虎退治の方は極めて大胆に描写している」。こうした精緻な分析は、読者が登場人物の性格特徴を把握するのに役立つものである。金人瑞は、さらに比較という手段を用いて、同じ類型の人物の中から、それぞれの人物の独特の個性特徴を分析し明らかにしている。「読第五才子書法」ではこう述べている。「『水滸伝』はひたすら人間の粗野なところを描写し様々に表現している。魯達の粗野なところは、せっかちであり、史進の粗野なところは、少年の俠気であり、李逵の粗野なところは、その乱暴さであり、武松の粗野なところは、束縛を嫌う豪傑の気象であり、阮小七の粗野なところは、ひたすら悲憤にあけくれる点であり、焦挺の粗野なところは、性格の悪さである」。これらは、先人の見解にもとづき自分の考えを発展させ、精緻な分析を行ったものである。彼はさらに本文中のコメントで、上述の人物に対しすぐれた分析をしている。読者はコメントを読むことでよりいっそう『水滸伝』の描写のすばらしさを理解できるのである。


 『水滸伝』の登場人物は数多い。上は英雄豪傑から、下はみだらな女性や泥棒まで、全てが生き生きと描写されている。作者はどうやってこのような能力を身につけ、このように複雑な人物像を描き出せたのか。作者が英雄豪傑のイメージを創造できたのは、説明できる。というのは作者はもしかしたら英雄豪傑の気質をそなえていたかもしれないからである。しかし、作者が「みだらな女性を描いてなんとみだらな女性そのもの、泥棒を描いて泥棒そのものであるのは、どういうことか」。金人瑞は第五十五回の総批[総合的コメント]中で次のように答えている。

 

 

 思うに、施耐庵の文章は、実に心底からいかがわしい女の気持になり、泥棒の気持になって描いている。心底からその気持になっているので、まことの描写ができるのである。いったいどうして、創作物と現実の不義密通、忍者盗賊の区別がつこうか。

 


 ここで言う「心を動かす」[その気持になる]は、作者の「心」が深く書物の中の人物の思考感情に入りこむと、あたかも俳優が役になりきったかのように、英雄を演じては英雄そのものになり豪傑を演じては豪傑そのものになり、みだらな女性を演じてはみだらな女性そのものになり、泥棒を演じては泥棒そのものになるというようなものである。人物がいかに千変万化しようとも、ただ作者が作品を書く時「心を動かし」さえすれば、さまざまな迫真の人物を描き出せるのである。問題は、作者が生活上の知識を長期間蓄積してはじめて、自由闊達な境地に到達しうるということである。「水滸伝序の三」には次のように言う。

 


 『水滸伝』の描写は、百八人の人物を、それぞれ別々の性質、心情を持ち、別々の気質を持ち、別々の姿を持ち、別々の言葉遣いを持つように描いている。そもそも、一人の作者が数人の顔を描くと、兄弟のように似たものになるし、一つの口でいくつもの音を出そうとすると、情けない音とならざるをえないものである。施耐庵が彼自身の一つしかない心をはたらかせて、百八人の描写がそれぞれすばらしいものになるというのは、他でもなく、長期間の真理の探究のすえ、ある日突如として真理が訪れたのであり、かくして一筆で何千何万の人を描き出すことも、本来難しいことではない。

 

 

 彼は哲学上の問題を用いて文学上の問題を説明している。いわゆる「十年物に格れば、一朝物格る」[長期間の真理の探究のすえ、ある日突如として真理が訪れる]は、小説を書く人間から言うと、いつどこにあっても現実社会の人と事件を細心の注意を払って観察し、長期間にわたって生活上の知識を蓄積し、書物の中で描写しようとする全てが心の中で完全に熟するのをまってから筆をとれば、おのずから全てが順調に進み、百八人の性質、心情、気質、姿、言葉遣いは、難なく生き生きと描き出せるということである。この見解は、創作過程の重要領域に深く入りこんでいる。(pp.424-428)

 

 金聖嘆の批評理論は八股文の影響を強く受けており陳腐である、というのは一般的に言われることですが、周氏が言うように、それ以上に彼の精緻な小説理論、特に人物形象に関するものは後世の批評家に大きな影響を与え、多くの研究者に注目されてきました。

 

 とはいえ、この小説理論は金聖嘆独自のものというわけではなく、彼は李卓吾の人物形象に対する認識の影響が大きく存在しているのです。このように李卓吾と金聖嘆は対立する「水滸観」を有する一方で、小説理論においてははっきりとした継承関係にあるのです。

 

 李卓吾にしろ金聖嘆にしろ、彼らが目指したのは「真」に迫った描写でした。世の中の「真」の道理を、作中人物の「真」の姿を、その場面の「真」の雰囲気を、どのように表現し、読者に伝えられるのか。彼らの批評には「真」に対する強い志向が窺えます。その意識は後人にも着実に受け継がれていきました。

 

 明清人の小説研究を概観すると、体験の蓄積、作品の構想、ジャンルの特徴、表現方法などの面はもとより、様々な面ですでに多くの成果をえていると認められる。中でも小説中の登場人物に対する探究はもっとも注目に値する。彼らは一般的に生活の真実に従って創作するよう心がけており、これはリアリズムの創作方法が要求するものである。睡郷居士は「二刻拍案驚奇序」で次のように述べている。「現在、世間で行なわれている小説は、ざっと百種もあるが、真を失う病気は、奇を好むことに起こる。奇が奇であることを知って、奇のないことこそが奇であるということを知らない。目の前の記述すべきことをさしおいて、議論の対象にならない空想の世界に遊ぶことは、画家で犬や馬を描くことをせず、幽霊やばけものを描く人が、「私は人の耳目を驚かすことだけを考えている」というようなものだ」。これは、この原則に従って創作を行なわない者への譴責である。いわゆる「奇のないことこそが奇であるということ」とは、リアリズムの原則に従って創作された作品が、平板で意外性がないように見えるが、生活の真実を反映しており、「奇」の効果をえられるというのである。作者がもしひたすら新奇さ奇妙さを追求したら、かえって人の耳目をおどろかせるだけで、「人を歌わせたり泣かせる」効果は生み出すことができない。ここで貴重なことは、睡郷居士がロマン主義的創作方法を運用して生み出された「奇」を、一般の「奇」から区別していることである。「『西遊記』のように、荒唐無稽で不合理な作品であって、読者のだれもがその誤りがわかるようなものがある。しかしその内容について見ると、三蔵法師孫悟空沙悟浄猪八戒の師弟四人は、それぞれ別個の性質、心情をもち、それぞれ別個の動作ふるまいをする。こころみに彼らの言葉や行動の一つをとりあげ、誰のものかあてさせても、はっきりとどの人物のものかが分かる。というのは、まさしく幻想の中に真実があることこそが、本質を伝えるということだからである」。ここでは、『西遊記』中の性格描写をたいへん肯定的に評価している。『西遊記』の登場人物は非現実的であり、物語自体も非現実的であるが、彼らは単に人の耳目を驚かす幽霊ばけものではなく、作者も決して議論の対象にもならない空想の世界に遊んでいるのではない。『西遊記』は幻想の中に真実を宿すことで、本質を伝えることができたのである。ここでの『西遊記』の「真」に対する叙述は、ロマン主義作品における芸術的真実の問題に触れているのではないだろうか。(pp.429-430)

 

 以上で本章の内容は終わりとなります。今回は第十章を扱いましたが、以前記載した目次を見れば分かる通り、本書の内容は中国古典文学批評全般を扱っています。先秦から明清まで、まずは皆さんの興味に従ってお読みいただくだけで良いかと思います。本書は幅広い読者を満足させることができる一冊だと思います。

 

ぴこ

周勛初著/高津孝訳『中国古典文学批評史』(2)

 さて、今回は前々回の記事の続きで、周勛初著/高津孝訳『中国古典文学批評史』を読んでいきたいと思います。第十章の「李贄と金人瑞の小説理論」(pp.419-433)を読み進めていきます。李贄とは李卓吾、金人瑞とは金聖嘆のことです。本書のこの章は李卓吾と金聖嘆の批評の特徴を簡潔にまとめています。

 

 市民階層が中国社会においてしだいに重要な社会的地位を占めるにつれて、通俗文学も発展してきた。戯曲、小説は、元明代にあって大きく発展し、見識の高い文人、特に市民意識をそなえた文人は、戯曲、小説の価値を重視しはじめた。李贄は小説を儒教経典と並ぶ重要な地位にまで押しあげた思想家である。

 

  李贄は常にこう言っていた。宇宙の中には五つの偉大な文学作品がある。漢には司馬遷の『史記』がある。唐には杜甫の詩集がある。宋には蘇軾の詩文集がある。元には施耐庵の『水滸伝』がある。明には李夢陽の詩文集がある、と。(引用者注:周暉『金陵瑣事』巻一・五大部文章)

 

 詩文に批評圏点[短いコメントや、優れた字句の横に引かれた強調記号の点や線]を加えることは、以前から有ったが、小説に批評圏点を加えることは、李贄に始まる。これは中国古代の文学批評における特殊な形式である。思想家としての李贄は、小説に批評圏点を加えることで自らの思想を発表する一つの手段とした。彼は作品中の人物、事件を評論する際、つねに明代社会の好ましからぬ現象にそれを関連づけ、攻撃を加えた。さらに、彼は文学様式としての小説に対して芸術上の観点からも分析を加えた。(p.419)

 

 李卓吾は自身の思想を表現するため、小説への批評を大いに活用しました。批評者が注目した字句には圏点が附せられ、行間や上部などに評語が書き加えられています。

 では、ここに言う「芸術上の観点」からの分析とはどのようなものか、その具体例が次々に挙げられます。 

 

 李贄は小説を文学として認め、虚構等の芸術手段の重要性を肯定した。『李卓吾先生批評三国志』四十五回、「群英会に蒋幹計に中る」の評ではこう述べている。「これらの計略は、児戯に等しい。知らないものはすぐれた計略と思うのである。まことに通俗演義[分かりやすく世の中の道理を説いた物語]である。すばらしい、すばらしい」。四十六回「諸葛亮計もて周瑜を伏す」の総評ではこう述べている。「諸葛亮曹操軍から箭を借用したという計略は、策士の奇計ではあるが、結局のところ、巧妙な秘策ではない。通俗演義の中ではこのように誇張せざるを得ないだけである。将たるものは、この策を衣鉢として継いではならない」。これらの評は、小説としての通俗演義は、虚構、詳述、誇張などの特徴を備えているべきだと言うもので、文学上の重要な問題に触れることになった。一般に当時の文人は常に歴史的真実と芸術的真実を混同して、儒教経典にもとづき、小説中のストーリーをいずれも誤りであるとし、正統史学という観点から通俗文学の創作を嘲笑い軽蔑し否定した。李贄の見解のすぐれた点は、小説と正統史学という二者の異なる要求を明確に区別し、文学作品の芸術的独自性を擁護し、それによって通俗小説の芸術的技巧を高く評価することを可能にしたことである。また、こうした観点が樹立されてこそ、小説は順調に発展できたのである。後に、無礙居士は、「警世通言叙」でこう述べている。「通俗小説では、登場人物のストーリーが全部本物という必要はなく、話し自体が本人と関係ないこともある。その真実な部分は、国家公認の書物の足りない点を補うことができ、その虚構の部分も人々をふるいたたせ正しい道に導き、思いのたけをはらさせる意図を必ずもっている。ストーリーが真実であれば道理は本物であり、たとえストーリーが虚構であっても道理が本物であれば、聖人の教化を邪魔することなく、聖人賢人の教えにも誤たず、『詩経』『書経』、経書、歴史書に背くこともない」。これは、小説の本質が、「理」[道理]との一致に在ることを言うのである。小説が客観的現実の本質を反映し生活の内在規律を体現してさえいれば、真実の内容を具えていることになるのである。読者は「理の真なる」[本当の道理を有する]作品を読み、「人間の本性にふれることで、それに共感し、人の感情に接することで、自らの感情が生じ」、多方面の感銘をうけることが可能になるのである。このような認識は、李贄の見解を大きく発展させたものである。(pp.420-421)

 

 通俗文学は一般に取るに足らぬものと見做されていた当時にあって、李卓吾はそこに芸術的独自性のみならず、作品で描かれる道理の真実性を見出したのです。

 

 李贄は文章の表現能力を特に重視しており、小説中の精彩ある描写に対しては、つねに圏点を細かに付し、丁寧な指摘を加えた。たとえば、袁無涯本『忠義水滸全伝』第三回中の「魯提轄拳もて鎮関西を打つ」の描写に対しては、隅から隅まで尽く圏点を加え、賞賛している。魯智深が三度拳をふるった折、第一打は鼻に、第二打は目に、第三打はこめかみにあたったが、書中三ヶ所全てに長文の眉批[書物の上端に書かれた評語]を施し、分析評価している。李贄の評にいう、「鼻、目、耳の三ヶ所について、味覚、色彩、音声を用いてその様子を形容しており、全くすばらしい」。分析は簡潔であるが、教育における読解指導にとって啓発的意義がある。最後にこの一段の文章に総評を加えこう述べている。「荘子は風を描写し(「『荘子』逍遙游)、枚乗は波を描写し(「七発」)、水滸伝においては魯智深の拳を描写し、いずれも文学における絶妙のえがき手である」。この一文は、李贄が文学作品におけるイメージの問題に特に注意を払っていることを示している。同書第十五回は「呉学究三阮に説いて籌(かず)に撞(い)らしめ」の描写部分に対し、李贄は、「この三人の姿形声音までありありと、いきりたつさまも生き生きと、積もり積もった憤りも涙せんばかりに描写されている」と重ねて指摘し、作品中の特徴ある性格の人物や言葉に対して読者の注意を喚起している。(p.421)

 

 「魯提轄拳もて鎮関西を打つ」の描写については以前の記事「初学者向け『水滸伝』関連図書1:井波律子『中国の五大小説』(2)」でも紹介しているのでご参照ください。私個人としてはかなり好きな場面です。

 李卓吾の批評には、人物の性格や性質について触れたものが多くあります。

 

  『水滸伝』中の人物性格についての李贄の分析はこれまでになかったような新しいものである。容与堂本『忠義水滸伝』第五十二回の批語は以下のごとくである。「わが同姓の李逵は、ひたすら一本気な男で、物事をよく考えることなどさらさらなく、また裏のある言葉をはくこともない。殷天錫のような横暴なやつは、一発でなぐりころしてしまうだけだ。どうして天子のおすみつきなど必要としよう。柴進どのは結局のところお上品で、役にたたない」。同書第三回において、彼は同一類型の人物性格に対して区分をしている。通り一遍のものではあるが、後世のものに対し個性分析に目をむけるよう促しており、指導的な意味がある。批語には次のように言う。


 『水滸伝』の文章は千古に卓越している。一見同じに見えるが実は異なったところのある描写対象に対してそれぞれ書きわけがなされている。たとえば、魯智深、李遠、武松、阮小七、石秀、呼延灼、劉唐などは、いずれも短気な人物であるが、水滸伝の中で描写表現されると、それぞれ、気風があったり、みてくれが良かったり、流儀をもっていたり、身分の差があったりと、一つとしてまずいものはなく、すこしも混乱していない。読者は自ら見分けがつき、必ずしも名前を必要としない。事実を見ればすぐにその人が分かるのである。(第三回批語)


 これら人物の性格の差は、それぞれの人物が有する特定の社会的地位、特定の成長過程、特定の個性特徴、特定の風采風格によって決定される。したがってこの文章は、人物の性格を正確に描写するポイントの所在を要領よく指摘していると言えるのである。こうした作中人物の性格についての分析理論は、読者が作品を理解するのを助け、後世の作家が明確な人物造型を行うのに重要な働きをした。
 公安の三袁は李贄の伝統を受け継ぎ、小説を大いに重視した。袁宏道「朱生の水滸伝を説くを聴く」にはこういう。「少年のころ風刺的ユーモアが得意で、『史記』滑稽列伝に惑溺した。長じて『水滸伝』を読むようになり、自分の文章はいっそう珍奇で変化に富むものになった。儒教の古典である六経も究極の名文ではなく、司馬遷の文章も華やかさを欠く」。とすれば、彼は、『水滸伝』の創作水準がすでに六経や『史記』のそれを超えていると認めているのである。(pp.421-423)

 

 公安派の三袁(袁宗道・宏道・中道)は李卓吾の代表的な後継者で、彼らが提唱した「性霊説」も李卓吾の影響を大きく受けたものです。小説批評で言えば、李卓吾の人物描写への眼差しは、金聖嘆をはじめとする後世の文人に多大な影響を与えました。

 

 ここまでは李卓吾を中心とした内容でした。大まかではありますが、李卓吾白話小説批評の特徴を知ることができました。本章は次に、李卓吾の小説批評の後継者であり、明末清初の白話小説批評の大家である金聖嘆へと話が移ります。では、次回に続きます。

 

ぴこ

【お知らせ】更新頻度を変更します

 皆さんこんにちは。ぴこです。本日はお知らせしたいことがあります。

 

 2021年3月に開設して5ヶ月、毎週水曜日に更新を続けていたこの「聚義録」ですが、次回から更新頻度を変更いたします。

 

 記事を書くこと自体はとても楽しく、想定以上の多くの方に読んでいただいていることをとても嬉しく思っています。しかしながら、毎週更新の負担が大きいことと、生活の変化により今後多忙になることが予想されるため、やむなく更新頻度を減らすことにいたしました。これからは、毎月第1・3水曜日に更新をしていきます。

 

 今後とも「聚義録」をよろしくお願いいたします。

 

ぴこ

周勛初著/高津孝訳『中国古典文学批評史』(1)

 さて、今回からは周勛初著/高津孝訳『中国古典文学批評史』(勉誠出版、2007)を読んでいきたいと思います。本書は書名の通り、中国文学批評史を概説したもので、高津氏が原著の周勛初『中国文学批評小史』を翻訳したものです。本書は版元品切れになっており、入手がやや困難なのですが、中国古典文学界隈では国境を超えて非常に評価が高く、日本以外にも韓国でも翻訳されているようです*1

 

 本書の目次は以下の通りです。

 

○題記

●第一編 先秦の文学批評

  第一章 「詩は志を言う」説の形成 / 第二章 道家の文学観

  第三章 儒家の文学観 / 第四章 法家の功利主義文学観

●第二編 漢代の文学批評

  第一章 漢代儒家の詩歌理論「毛詩大序」 / 第二章 漢代学者の辞賦観

  第三章 揚雄の正統文学観 / 第四章 王充の批判

●第三編 魏晋南北朝の文学批評

  第一章 曹丕『典論』論文 / 第二章 陸機「文賦」

  第三章 葛洪の文学進化論 / 第四章 南朝文学理論の発展

  第五章 劉勰『文心雕竜』 / 第六章 鍾嶸『詩品』

●第四編 隋唐五代の文学批評

  第一章 唐初の文学批評と杜甫 / 第二章 元稹、白居易と新楽府運動

  第三章 韓愈、柳宗元と古文運動 / 第四章 司空図の風格論と詩味説

●第五編 宋金元の文学批評

  第一章 宋初の詩文革新運動 / 第二章 道学家の文学否定論

  第三章 蘇軾の創作経験論 / 第四章 黄庭堅の詩論と江西詩派の形成

  第五章 南宋詩人の江西詩派批判 / 第六章 宋の詩話と厳羽『滄浪詩話』

  第七章 元好問「論詩三十首」 / 第八章 婉約派と豪放派の詞論

●第六編 明清の文学批評

  第一章 明代擬古主義 / 第二章 李贄と公安派

  第三章 明末清初の三大学者の文学観

  第四章 葉燮『原詩』―詩歌原理の探求― / 第五章 清初詩壇の論争

  第六章 桐城派の基本理論と発展 / 第七章 明清文人の民間歌曲観

  第八章 明代戲(ママ)曲理論の論争と発展

  第九章 李漁『閑情偶寄』の戯曲論 / 第十章 李贄と金人瑞の小説理論

  第十一章 浙派と常州詞派の詞論

○あとがき

 

 

 一見して明らかなように、本書は先秦〜清代までの文学批評史を扱っており、批評史を概観するにはうってつけの本です(※原著にはこれに近代部分がありますが、本書では除かれています(韓国語版には近代部分もあるらしいです:友人談))。中国文学批評に関する専門書としては、最近、永田知之『理論と批評―古典中国の文学思潮―』(臨川書店、2019)が出版されました。永田氏の著書も非常に良書で、この2冊を並べて読むと一層内容の理解が深まることと思います。

 

 本書の特徴について、蒋凡・汪涌豪「中国文学批評理論に対する独自の理解を見出す」(『社会科学戦線』、1997年第5期)をもとに「あとがき」にて略述されています。

本書は二十万字という、中国文学批評史の書物の中でも最も短いものであるが、先秦から晩清まで約二千五百年間の中国文学理論と批評の発展的歴史を簡潔に叙述し、また、詩文以外の戯曲、小説、民間文学までが考察の対象となっており、均衡のとれた総合的批評史となっている。

 

特徴①:中国文学批評、理論の発展的筋道を簡潔に叙述している

 本書の第一の特徴は、中国文学批評、理論の発展的筋道を簡潔に叙述していることにある。中国文学批評史は、『文心雕竜』など体系的著作に乏しくはないが、大部分の資料は具体的事例に偏重し、個別作家、作品の断片的研究にすぎず、総じて系統的分析と叙述に欠け、理論発展の筋道がはっきりしない。著者は、各時期の詩文批評の成果をまとめ、理論、批評の歴史的発展の筋道を簡潔に描き出すことを主要な目的とした。たとえば、文学の起源と動機について、各時代の理論家はそれぞれ自らの見解を著書に述べているが、断片的なものに止まり、その関連性や呼応を見出すことは容易ではない。著者は、西晋・陸機『文賦』の創作動機論を述べたあと、先秦の『礼記』楽記の影響を論じ、また後段で、梁代の『詩品』序、『文心雕竜』物色篇の論点との一致を指摘する。こうして、『礼記』楽記の理論の展開が明確になるのである。さらに唐の元稹、白居易の創作動機論の解説では、梁・蕭綱「答張纘謝示集」を引用し、『礼記』楽記の理論に後世どのような要素が付加されていったかを明確にして、創作動機が個人的境遇から社会的事象へと拡大したことを指摘している。

 

特徴②:広い視野にたった総合的研究を目指している

 特徴の第二点は、文学のみならず、社会、政治、思想、芸術など広い視野にたった総合的研究を目指している点である。というのは、文学批評の研究が文学だけの狭い研究範囲に止まっていては、一時代の理論形式の発展の全体像が明確にはならないからである。たとえば、屈原と「離騒」の評価については、漢代に淮南王劉安、司馬遷、班固、王逸の四人の人物によって『詩経』と比較しての評価が行われたが、評価を行う人間の生きた時代の状況が評価の在り方を左右する点を明らかにしている。漢代初期の、儒教がその権威をまだ確立していない時期は、淮南王劉安、司馬遷によって客観的評価が行われた。ところが、後漢初期の儒教に基づく中央集権化の強まる時代になると、班固は屈原の人格を儒教的観点から非難するようになる。さらに後漢末期の政治的混乱の時代になると、王逸は世の乱れを正し、風俗を改めるという観点から、屈原の品行方正な人格と作品の諷刺諫言的側面を高く評価する。作品評価が時代の産物としての側面を持つことを指摘するのである。

 

特徴③:批評史研究と文学史研究の結合

 特徴の第三点は、批評史研究と文学史研究の結合である。文学理論、文学概念を研究するにあたって、文学史的知識を参考とすることにより、抽象的議論が生き生きした具体性をもって読者に提示される。たとえば、北宋・黄庭堅の、杜甫の詩は夔州以降、韓愈の文章は潮州から都に帰って以降のものを学ぶべきという主張は、二人の文学的傾向の理解無しには意味をなさない。著者は、杜甫、韓愈がこの時期以降、現実的傾向を弱め、形式、技巧を追求するという文学史的事実を指摘し、それゆえ黄庭堅の詩論と一致することを述べている。

 

 以上のような特徴を持つ本書は、専門の時代や文学ジャンルを問わず、文学批評に関心のある方にとって有益な本だと思います。

 今回は本書の目次と特徴に関する紹介に終始してしまいましたが、次回からは実際に第十章の「李贄と金人瑞の小説理論」(pp.419-433)を読んでいこうと思っています。

 

ぴこ

 

 

*1:訳者の「あとがき」に「本書は一九八一年の出版後、好評を博し、初版八千余部はすぐに無くなり、その後、香港、台湾、韓国で相継いで海賊版がでるようになった。また、一九九二年には韓国語版も出版されている」(p.446)とあります。